省型旧形国電の残影を求めて

戦前型旧形国電および鉄道と変褪色フィルム写真を中心とした写真補正編集の話題を扱います。他のサイトでは得られない、筆者独自開発の写真補正ツールや補正技法についても情報提供しています。写真補正技法への質問はコメント欄へどうぞ

ノーシルノーヘッダーのクハニ67から改造された 飯田線 クハユニ56002 (蔵出し画像)

 本車は長年にわたり飯田線で小荷物・郵便輸送に大活躍した車輛です。1日に豊橋ー辰野間の長距離の往復を繰り返していました。1978年に80系が投入される前までは、豊橋機関区の40番台運用を担当し、クモハ42もしくは50と組み、McMcTpgc の3両編成で飯田線を駆け抜け、時にクモニも連結しました。1978年に80系が投入されると本車は伊那松島区に移り、McTpgc の編成の 90番台運用を担当します。90番台運用では単独で運行されることはなく常にMcTc の 70~80番台運用とともに運用され、時に豊橋区に残ったクモニと併結されて運用される状態も変わりありませんでした。

クハユニ56002 (静トヨ) 1977.12 豊橋機関区

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クハユニ56002 (静トヨ) 1975.5 辰野駅

 辰野駅での積み込み作業場面です。この当時かなりたくさんの郵便物、小荷物があり、フル稼働していたことが分かります。

クハユニ56002 (静トヨ) 1976.5 豊橋

クハユニ56002 (静トヨ) 1976.5 豊橋

クハユニ56002 (静トヨ) 1976.5 豊橋

クハユニ56002 (静トヨ) 1975.5 豊橋

クハユニ56002 (静トヨ) 1975.5 豊橋

 客室と郵便室の仕切りです。

クハユニ56002 (静トヨ) 1975.5 豊橋

 トイレ側です。

本車の車歴です

1940.7.5 梅鉢車輛製造 (クハニ67003) 東鉄 → (1947.3現在 東ツヌ) → 1952.4.14 改造 豊川分工 静トヨ → 1978.10.19 静ママ → 1984.1.18 廃車 (静ママ)

 本車は元々クハニ67003 として関西の梅鉢車輛で製造されました。クハニ67は当初、1936年12月に電化開業した常磐線用に2両製造され、その後1940年に、総武、赤羽、横浜線用として 003 ~ 008 が増備されましたが、1940年製の車輛はノーシルノーヘッダーで登場しました。本車はその1輌です。1947年の時点で総武線にいるので、おそらく本車は当初から総武線向けに配備されていたものと思われます。1947年の時点で、1940年に増備された車両は東ツヌに003, 004, 006, 東ヒナに007, そして東チタに005がいたので、おそらく当初の配置は、東ツヌに 003, 4 東イケ (赤羽線用) に005, 006、東ヒナ (横浜線用) に 007, 008 で、008が戦災で失われた、という状態ではなかったかと推測します。その後赤羽線での荷物合造車の運用が停止され、総武線の補充、および横須賀線のクモハユニ44の予備として移動したのではないでしょうか。

 因みに、1940年に製造されたクハニ67のその後の動向ですが、東ツヌにいた、67003, 004 および東チタにいた 005が飯田線に移りクハユニ56に改造されました。横須賀線合造車の運用は1949年に終了していますので 005 は飯田線転出前に東ツヌあたりに一時的に転出していたかもしれません。006は 1947年の時点では東ツヌにいたものの、時期不明ですがその後 (おそらく 1952年以前に) 東ヒナに移り、さらに 1962.12.10に東カノに移動し、救援車代用として留置されていたようですが、1969.7.15に廃車になっています。007 は東ヒナから 1956.5 に東マトに移りますが、三河島事故で大破し、1962.9.8 に廃車となっています。なお、その後の横浜線の荷物輸送はクモニ13が担当していました。また常磐線では、事故で失われた 007の後釜として、青梅線からクハ55より改造された 67904 が東マトに呼ばれました。おそらく、首都圏の国電区間で荷物合造車が最後まで運用されていたのが常磐線で、67002 および 67904 が1969.9.4 に廃車になっています。67002 は新製配置以来松戸電車区を離れることはなく、おそらく松戸電車区のヌシ的な存在だったでしょう。

 その後本車は、1952年に飯田線に転出し、郵便荷物合造ならびにセミクロスシート車に改造され、トイレも設置されました。

 その後は31年の長きにわたり飯田線の小荷物・郵便輸送のため大いに活躍しましたが、新性能化によりその任をクモユニ147に引継ぎ引退しました。しかし、新性能化後まもなく、飯田線の小荷物・郵便輸送が廃止され、さらに国鉄自体郵便輸送の全廃と小荷物輸送の大幅縮小となり、クモユニ147自体その任を解かれてしまいます。

 現在の飯田線は郵便輸送がなくなってしまったため、全線を通して運転される列車自体が極めて僅かになってしまいました。

 

セミクロスシート車の元祖クモハ51中 最後まで残った飯田線 クモハ51029 (蔵出し画像)

 70, 113, 115, 211, 313, 225, 227系など 3扉セミクロスシート車の起源となったのは、1935年に登場したクモハ51です。元々は、高尾山へのハイカーで賑わった東京圏中央線のサービス向上のため投入され、中央線の一番下り側 (偶数) に連結されました。中央線にはモハしか投入されませんでしたが、のちに京阪神緩行線用にも投入され、関西には付随車 クハ68 や クロハ69 も投入されました。またモハユニ44 の増備として横須賀線に投入された モハユニ61 も、グループの中では唯一関西とは縁がありませんでしたが、形態的には 51系に入ります。

 戦後、最初に関東に投入されたモハ51は、4扉車に追われて、モハ42, 43一党と交換で関西に行くことで、51系の大半が関西に集結し、国鉄の内部では大阪形とも称されました。今日首都圏から3扉車の大半が一掃され4扉車に置き換わっている一方、関西のJRでは逆に4扉車の活躍の場がが少なくなっているのを見ると、歴史は繰り返しているようです。

 本車は関西向きに投入され、クモハ51のうち最後まで残った車両です。飯田線では 1978 年に 80系が導入された際、たくさんいたクモハ51の大半が、出力100kw の MT-15 だったため、廃車に追い込まれてしまいました。その後、1981年にクモハ51 の牙城だった身延線大糸線で旧形国電が引退に追い込まれ、本車が唯一最後まで残ったクモハ51 となりました。

 昔撮った写真を探しましたが、最後まで残ったにもかかわらず、写真は 1977 年に撮ったこの写真 1 枚のみ。しかも撮ったのは豊橋でした。もっと撮っておけばよかったのですが...

 なお、2-4エンド側が写っていますが、1-3エンド側の客用扉は、両端が桟つき、真ん中が桟なしだったようです。こちらは4エンド側の客用扉が桟なしになっています。

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クモハ51029 (静ママ) 1977.12 豊橋駅

本車の車歴です。

1937.2.27 日本車輛製造 → 1937.5.8 使用開始 大ミハ → 1937.9 大ヨト → 1939.3 大アカ → 1941.11.8 大ヨト → 1943.3.11 大アカ → 1944.8.3 座席撤去 → 1948.12.9 座席整備 → 1954.3.31 更新修繕I 吹田工 → 1954.11.28 大ミハ → 1951.3.1 大タツ → 1965.3.4 長キマ → 1966.6.5 静ママ → 1983.11.29 廃車 (静ママ)

 本車は日本車輛で製造され、1937年に京阪神緩行線用として配置されます。51系の仲間は、1937年12月に明石区が開設されるとほぼ全車そちらに移動しますが、本車は明石区開設前になぜかロングシートで揃っていたはずの城東・片町線に転出します。その後、淀川区と明石区の間で玉突き扱いされましたが、座席撤去以降は京阪神緩行線に定着します。しかし、1965年に関西での生活を終え、大糸線に転出します。おそらく 17m 車淘汰のために投入されたものと思われます。しかし、ロングシート17m車で揃っていた大糸線では設備過剰と思われたのか、すぐ伊那松島区に移り、その後 17年余りを飯田線で過ごすことになりました。

20m級4扉通勤電車の始祖・戦時4扉化試作改造車 片町線クハ79056

 本日ご紹介する旧形国電車輛は、かつて片町線で使われていたクハ79056です。と言っても、63系のクハ79とは異なります。本車は42系2扉車の4扉改造車の先鋒です。同時に4扉車の元祖・源流であり、のちのモハ63や101, 103, 201, 203, 205系、そして今日の209, 231, 233, 235, 321系等の4扉通勤車のすべては本車に始まったと言えます。元々は1941.3.26の塚本駅列車衝突事故で大破し休車になっていたサロハ46を改造したクロハ59022を、1943年になって試作的に4扉に改造したものです。そういう意味では歴史的な車両であり、保存の対象になっても良いだけの資格があった車ですが...

 他の元サロハ46のクロハ59は3扉化され、クハ55を経て、クハ68になっており、のち身延線信越線で使われました。本ブログで既に全車紹介しています (クハ68107, 109, 111)。改造後は一時クハ55106を名乗っていましたが、42系を組織的に4扉に改造する方針が出され、それに伴いクハ85026に改番、その後クハ79に編入されたものです。
 そもそも一番最初は4輌しか作られなかった42系サロハ46でそれがクロハ化され59に編入された車輌でしたので、かなりの複雑な改造遍歴を経てきました。
 4扉改造後は主に大ヨトで暮らしていましたが、1951年、一時的に大ミハに復帰しましたが、すぐ大ヨトに戻されました。おそらく京阪神緩行線セミクロス車復活の方針で再度大ヨトに還流したものと思われます。また森ノ宮区開設とともに森ノ宮区に移っていますが、やはり101系の大阪環状線投入と共に、淀川に戻り、以降片町線で生涯を過ごしました。
 片町線というのは、ちょっと地味ではありましたが、城東線 (今の環状線) とともに大阪国電の元祖でもあり、20m級国電 (電動車) の発祥の地であり、色々歴史的な由緒深い路線だったのですね。その片町線も、起点の片町駅はなくなり、学研都市線という通称までついてすっかり変貌してしまいましたが。

 なお、一部写真は以前のブログで紹介したものの再掲ですが、補正を変えています。

クハ79056 (大ヨト) 1976.3 淀川電車区

 

クハ79056 (大ヨト) 1976.3 淀川電車区

 写真ではちょっとわかりにくいですが、本車の貫通路扉は、手前の木製のものです。鋼製の貫通路扉は隣のモハ72のものです。

クハ79056 (大ヨト) 1976.3 淀川電車区

 運転台です。シンプルですね。

クハ79056 (大ヨト) 1976.3 淀川電車区

 中央の増設扉は1000mm とやや幅が狭くなっています。また事故を経たせいか、窓は作り直され再配置されています。後この改造方式は吹田工場でのクハ58、4扉改造のスタンダードになります。

クハ79056 (大ヨト) 1976.3 淀川電車区

クハ79056 (大ヨト) 1976.3 鴫野

クハ79056 (大ヨト) 1976.3 放出

クハ79056 (大ヨト) 1976.3 鴫野

 正面ですが平妻車にしては珍しく運転台左側が2段窓になっています。これは元々付随車だったものを後から改造したためです。1934年度後半から、おそらく夏季暑さ対策で2段窓が採用されるようになりますが、関西向けの平妻制御車、電動車で最初から2段窓だった車輛はありませんでした。なお、元サロハ46のクハ68の3輌も同様だったと思われますが、寒冷地に転属して2段窓は1段に改修されたものと思われます。

 また幌枠は原形ではなく、戦後幌の再整備を行った際、片支持形の幌に改められましたので、その際に交換されているはずです。また元サロハ46改造のクロハ59は全車奇数向きでしたので、本車も偶数番号でありながら奇数向きとなっています。なおクハ58は偶数向きでした。

クハ79056 (大ヨト) 1976.3 京橋

本車の履歴です。

1934.8 日本車輌製造(サロハ46100)→使用開始 1934.7.20(大ミハ)→1936.4.1 改番 (サロハ46014) → 1937.8改造 (吹田工 クロハ59022)→1937.11.6 大アカ→1938.10.20 大ミハ→1943.3.9改造[座席撤去含む]&改番(クハ55106)→1943.3.11 大ヨト→1943.8.4改番 (クハ85026)→1948.12.14 座席整備→1949.6.23改番 (クハ79056)→1951.9.17 大ミハ→1951.9.21 大ヨト→1954.10.10更新修繕I(吹田工)→1961.4.1 大モリ→1961.11.29 大ヨト→1976.10.7廃車(大ヨト)

 本車は京阪神電車化用として1934年に製造されました。当初は4輛の急行編成用中間車として登場したようですが、1937年に流電の投入と、編成の短縮、フリークェントサービス化のため奇数向きの制御車に改造されます。しかし、1941年の列車衝突事故で休車になっていたところ、4扉化試験車の対象として選ばれ、63系に先駆けて初の4扉車として生まれ変わります。その後は主に城東線、片町線で使われました。1961年には一時大阪環状線用として新たに発足した森ノ宮区に移りますが、101系の投入ですぐに淀川区に舞い戻り、そのまま片町線用として最後まで使われ、1976年に廃車になりました。

 5回も改番を経ていますが、これは旧形国電中、最高記録かもしれません。

データ出所: 『関西国電50年』

豊橋機関区の救援車 クエ28100

※本記事は、以前別サイトに掲載していたものを若干手直ししたものです。

 本車は、ずっと豊橋機関区の片隅にいた救援車、クエ28100です。他の車に隠れていることも多かったのですが、このときはたまたま比較的空いていたため全体を撮ることができました。もっとも天気が悪くASA400のフィルムでしかも開放で撮っているので、粒子の荒れと、コンパクトカメラのレンズの悪さがもろに出ています。

 もともとは山手線で活躍したサハ17でした。

クエ28100 (静トヨ) 1977.12 豊橋機関区

クエ28100 (静トヨ) 1977.12 豊橋機関区

クエ28100 (静トヨ) 1976.5 豊橋機関区

本車の車歴です。

1927 川崎造船所製造 (サハ73539) → 1928.10.1 改番 (サハ36040) → (1947.3 東マト在籍) → → 1951 更新修繕I 大宮工 → 1953.6.1 改番 (サハ17022)  → (1954.1 東イケ在籍)→ 1955.12.22 改造 大宮工 (サハ17122) → (東イケ) → 1961.3.24 東ヤコ → 1963.11.10 静トヨ → 1964.3.30 改造 浜松工 (クエ28100) → 1985.2.28 廃車 (静トヨ)

 元々は1927年にサハ73539として製造された半鋼製電車の始祖、30系の中間付随車でした。東鉄に配置されたことは間違いありませんが、どの電車区だったかは分かりません。なお、1947.3当時は松戸電車区に配備され(『終戦直後 東京の電車』による)、さらにダブルルーフ屋根をシングルルーフに改造する直前(1954.1)には池袋電車区にいたことが分かっています。

 一旦常磐線に出た本車が、再び山手線に戻ったのは意外です。これは、1950年頃に63系の増備を受けて、東京の国電の再編があり、17m車は買収線区 (南武、青梅、鶴見)、および山手線に集中配備、京浜東北、中央線は連合軍専用車を除き20m 4扉車に集中配備、山手線は 20m 3扉車が排除され、20m 4扉車と17m 車の混成に、そして関東の20m 3扉車はやや閑散な、常磐、総武、横浜線 (一部横須賀線) に限定し、余った20m 3扉車は関西に転出させられました。本車は戦前か戦中かは分かりませんが一旦常磐線に流れました。ひょっとすると1936年の松戸電化の際に転出したのかもしれません。しかし、常磐線に20m 3扉車に統一させるにあたって不都合となり、1950年前後に転出したものと思われます。その際本車はサハであるため、編成の短い買収線区に転出させては使いにくいので都心の山手線に還流させたのでしょう。山手線が20m と合わせて遅くまで(101, 103系投入まで) 17m が使われていたのは、今考えると意外ですが、一つは当時山手線の車両基地が狭かったため、20m 車に統一できなかったことと、ラッシュの激しい山手線では、扉間隔のあく20m 3扉車だと、乗客がさばききれないと考えられたためでしょう。

 今日 JR東日本ではますます 4 扉車統一の動きに拍車がかかる一方、JR 西日本では、古くなった4扉車の代替に、3扉車が新造されているのを見ると、当時の動きは現在を先取りしていたと言えそうです。

 1961年に101系に追われて南武線、矢向電車区に移りますが、やはり持て余されたためか (しかも矢向電車区は敷地も狭かったので) ほどなく豊橋に移ります。豊橋ロングシート 17m のサハが必要だったとも思えませんので、おそらく救援車改造含みでの移動だったものと思われます。
 そして豊橋で80系の終焉を見送った後、85年に廃車となっています。

データ出典: 『鉄道ピクトリアル』バックナンバー、『旧型国電車両台帳』、『終戦直後 東京の電車』(ないねん出版)

 

モハ41の最後に新製されたグループ 吾妻線のクモハ41047 (蔵出し画像)

 今回の車輛は、高崎地区で運用されていたクモハ41047です。以前紹介したクモハ41044と同様、モハ41として最後に新製されたグループで、電気溶接が採用されたためリベットがなくなっています。ただし044とは異なりヘッドライトは通常の形式に改修されています。以下の写真は吾妻線の運用に出発するところです。

 クモハ41044と同様運転台の窓がHゴム化されています。

クモハ41047 (高シマ) 1975.10 高崎駅

 後ろはクハ55403です。下は床下部分。

クモハ41047 (高シマ) 1975.10 高崎駅
床下 (空気側)

 そしてパンタ側連結面です。パンタグラフは灰色に塗られていました。

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クモハ41047 パンタ側 1975.10 高崎駅

 下は別の日、新前橋区で寝ている本車の姿です。幌が灰色に塗られていたのがはっきり分かります。全検は、51-6 大井工 となっていました。右隣はクモハ40044です。

クモハ41047 (高シマ) 1977.5 新前橋電車区

本車の車歴です。

1938.10.28 日本車輛製造 東鉄配置 → (1947.3現在) 東カマ → (1954.11現在) 千ツヌ → 1964.10.27 東ナハ → (1970.3現在) 高シマ → 1978.3.15 廃車 (高シマ)

 本車は、1938年日本車輛で製造され東鉄に配備されました。1947時点で蒲田区に配置されていましたので、おそらく最初に京浜線に投入されていたものと思われます。しかし、1950年頃の京浜線の4扉車集中配備により、総武線に押し出されたものと思われます。その後、103系の山手線新製配備により、山手線から移ってきた101系による新性能化が始まり、南武線に移ります。

 その後、鉄道誌の車輛の動き情報には情報が欠落していましたが、1967年6月に長野原 (のち吾妻) 線が電化されますので、おそらくそれに合わせて (1967年2~3月頃) クモハ41020, 023 とともに中原から新前橋に移ったものと思われます。なお、長野原線電化で使われたクハ55に便所設置工事が行われていたのが、1967年2月でした。その後10年ほど吾妻線両毛線などで活躍し、115系に置換らえて廃車となりました。

 

 

中央線で最後の活躍を続ける 209系 1000番台トップナンバー (81編成)

 さて、本日はJR東日本現役の209系1000代の車輛です。このグループは常磐緩行線/地下鉄千代田線用として登場しました。元々は、列車増発に伴う203系の補充用として1999年に2編成のみ製造されたレア車です。203系および207系500代は2009-11年に掛けてE233系2000番台で置き換えられましたが、本車は置き換えられませんでした。なお、203系時代までは国鉄/JR 車が小田急線に乗り入れることはありませんでしたが、E233系時代では小田急への乗り入れが行われるようになりました。しかし、本系列は小田急の仕様を満たしていなかったため、常磐・千代田線限定運用で使われました。

 その後2018.10には、E233系の増備で常磐・千代田線からの運用から撤退、同年12月には、中央線E233系のトイレ増設工事およびサロ増結工事での車両不足を補うための助っ人として、中央線に転用されました。おそらくE233系工事の終了とともに引退するものと思われます。しかし、現在E233系の大半にトイレ設置工事は終了しましたが、コロナ禍による旅客数の激減や半導体不足による車体製造の遅れでサロの増結計画が遅れており、その分本系列も延命しています。

 本系列はドアボタンを設置していませんが、運用区間は中央線だけでなく、現在では青梅線の運用もあるようです。ただし、高尾以西には入りません。

 以下上り方から下り方の順に写真をお見せします。

クハ209-1001 (八トタ) 2023.7 高尾駅 (山側)

クハ209-1001 (八トタ) 2020.12 西八王子駅 (海側)

 前面には、トンネル内での避難対策として、オリジナル番代とは異なり、前面運転台に扉が設けられています。

モハ209-1001 (八トタ) 2023.7 高尾駅 (山側)

モハ209-1001 (八トタ) 2020.12 高尾駅 (海側)

モハ209-1001 (八トタ) 2023.7 高尾駅 (山側)

東マトを八トタに貼り替えた痕跡
モハ209-1001

モハ209-1001 パンタ側連結面 2021.2

モハ208-1001 (八トタ) 2023.7 高尾駅 (山側)

モハ208-1001 (八トタ) 2020.12 西八王子駅 (海側)

モハ208-1001 連結面 2021.2
全検は 27-9 東京総合車両セ

サハ209-1001 (八トタ) 2023.7 高尾駅 (山側)

サハ209-1001 (八トタ) 2020.7 西八王子駅 (海側)

モハ208-1002 (八トタ) 2023.7 高尾駅 (山側)

モハ208-1002 (八トタ) 2020.7 西八王子駅 (海側)

モハ209-1002 (八トタ) 2023.7 高尾駅 (山側)

モハ209-1002 (八トタ) 2020.7 西八王子駅 (海側)

サハ209-1002 (八トタ) 2023.7 高尾駅 (山側)

サハ209-1002 (八トタ) 2020.6 西八王子駅 (山側)

サハ209-1002 (八トタ) 2020.12 西八王子駅 (山側)

サハ209-1002 (八トタ) 2021.7 西八王子駅 (海側)

モハ209-1003 (八トタ) 2023.7 高尾駅 (山側)

モハ209-1003 (八トタ) 2020.11 西八王子駅 (山側)

モハ209-1003 (八トタ) 2021.7 西八王子駅 (海側)

モハ208-1003 (八トタ) 2023.7 高尾駅 (山側)

モハ208-1003 (八トタ) 2020.12 西八王子駅 (山側)

モハ208-1003 (八トタ) 2021.7 西八王子駅 (海側)

クハ208-1001 (八トタ) 2020.12 西八王子駅 (山側)

クハ208-1001 (八トタ) 2023.7 高尾駅 (山側)

クハ208-1001 (八トタ) 2021.7 西八王子駅 (海側)

クハ208-1001 (八トタ) 2020.12 西八王子駅 (海側)

 以下客室内です。新系列以前の車輛はメラミン化粧板が採用されており、陳腐化してきたら張り替えることが想定されていたと思いますが、209系以降はコストダウンのためか FRP 一体成型となっています。そのためか、205系では、明るいクリームだったのが、209系以降は灰色になってしまいました。おそらく経年劣化で黄色っぽく変色するのをなるべく目立たないようにするため変更したのではないかと思われます。ただ本車では同じ灰色でも、明るめになっており、209系オリジナルやE217のような暗い印象は緩和されています。

サハ209-1001 (西トタ) 2021.2 高尾駅

サハ209-1001 (八トタ) 2021.2 高尾駅

モハ208-1001 (八トタ) 2021.2 高尾駅

モハ209-1001 (八トタ) 2021.2 高尾駅

クハ209-1001 (八トタ) 2021.2 高尾駅

クハ209-1001 (八トタ) 2021.2 高尾駅

クハ209-1001 (八トタ) 2021.2 高尾駅

 運転台です。

クハ209-1001 (八トタ) 2021.2 高尾駅

 最後に本編成の車歴を紹介します。データはレイルラボおよび Wikipedia から。
1999.8 東急車両製造 (東マト) → 2018.11.2 (八トタ) → 現在に至る

新潟国電第1陣 元クロハ59, クハ68021 (蔵出し画像)

 今回は新潟地区で活躍していたクロハ59を改造したクハ68です。本車は新潟地区電車化のパイオニアとして、1962年に関西からやってきた車輛です。第1陣は10輌ほどの陣容だったようです。この当時まだ関西地区はHゴム化や関西型通風器などの独自の改造を行っていませんでしたので、比較的原形に近い端正な姿が維持されていました。その一方で新潟地区独特の重厚な耐寒耐雪装備がなされ、ドアレールへのヒーターの埋め込みや新潟地区独特のおでこに埋め込まれたタイフォンカバー、つらら切り、スノープラウなどが見られます。

 内部はご覧のように、ニス塗りのままでした。これは68044とは異なり直接関西からやってきたためです。

クハ68021 (新ナカ) 1976.8 長岡

本車の車歴です。

1934.3.31 川崎車輌製造 (クロハ59015) 大ミハ → 1942.5.19 改造 吹田工 (クハ68035) → 1944.11.22 改造 (座席撤去) 吹田工 (クハ55149) 大アカ → 1948.12.14 座席整備 → 1951.11.30 大ミハ → 1953.6.1 改番 (クハ68021) → 1956.3.1 大タツ →  1957.3.31 更新修繕I 吹田工 → 1962.4.27 新ナカニ → 1967.11.15 新ナカ → 1976.10.7 廃車 (新ナカ)

※車歴資料は『関西国電50年』より。

 本車は元々43系のクロハとして製造されました。向きは奇数でした。しかし、戦時中の2等車の廃止と戦時動員による増客増を受けて、1942年には3扉車に改造されクハ68に編入されます。この時クロハ59は全車3扉車に改造されました。さらに戦況が進み、座席撤去を受け今度はクハ55に編入されます。この時宮原区から明石区に転属となります。戦後、座席整備を受け、さらに京阪神緩行線クロスシートの復活方針により宮原区に復帰、そしてセミクロスシート化後、再度クハ68に編入されますが、この時以前とは全く別の番号が振られることになりました。その後高槻区が開設されるとそちらに移ります。

 しかし1962年5月に信越線の長岡-新潟間が電化されることになり新潟から高崎までが電化区間となることが決まると、新潟地区の電車化トップバッターとして、関西に配備された一部のモハ70とともに長岡第2機関区に送り込まれることとなりました。当初はブドウ色 (褐色) のまま活躍したようです。新潟に移ってすぐ三八豪雪に遭遇します。

 そこでの経験からかなり重厚な耐寒耐雪装備や、新潟色と言われる雪の中でも派手に目立つ塗色が採用されるようになったと思われます。ただこの三八豪雪で電車の機動性が評価され、横須賀線などからも追加の70系が送り込まれるようになりました。そして1967年の長岡運転所への改編を経て14年間新潟地区で活躍しましたが、1976年、後進の115系に道を譲って引退しました。その115系も今はありません。