本車は長年にわたり飯田線で小荷物・郵便輸送に大活躍した車輛です。1日に豊橋ー辰野間の長距離の往復を繰り返していました。1978年に80系が投入される前までは、豊橋機関区の40番台運用を担当し、クモハ42もしくは50と組み、McMcTpgc の3両編成で飯田線を駆け抜け、時にクモニも連結しました。1978年に80系が投入されると本車は伊那松島区に移り、McTpgc の編成の 90番台運用を担当します。90番台運用では単独で運行されることはなく常にMcTc の 70~80番台運用とともに運用され、時に豊橋区に残ったクモニと併結されて運用される状態も変わりありませんでした。
辰野駅での積み込み作業場面です。この当時かなりたくさんの郵便物、小荷物があり、フル稼働していたことが分かります。
客室と郵便室の仕切りです。
トイレ側です。
本車の車歴です
1940.7.5 梅鉢車輛製造 (クハニ67003) 東鉄 → (1947.3現在 東ツヌ) → 1952.4.14 改造 豊川分工 静トヨ → 1978.10.19 静ママ → 1984.1.18 廃車 (静ママ)
本車は元々クハニ67003 として関西の梅鉢車輛で製造されました。クハニ67は当初、1936年12月に電化開業した常磐線用に2両製造され、その後1940年に、総武、赤羽、横浜線用として 003 ~ 008 が増備されましたが、1940年製の車輛はノーシルノーヘッダーで登場しました。本車はその1輌です。1947年の時点で総武線にいるので、おそらく本車は当初から総武線向けに配備されていたものと思われます。1947年の時点で、1940年に増備された車両は東ツヌに003, 004, 006, 東ヒナに007, そして東チタに005がいたので、おそらく当初の配置は、東ツヌに 003, 4 東イケ (赤羽線用) に005, 006、東ヒナ (横浜線用) に 007, 008 で、008が戦災で失われた、という状態ではなかったかと推測します。その後赤羽線での荷物合造車の運用が停止され、総武線の補充、および横須賀線のクモハユニ44の予備として移動したのではないでしょうか。
因みに、1940年に製造されたクハニ67のその後の動向ですが、東ツヌにいた、67003, 004 および東チタにいた 005が飯田線に移りクハユニ56に改造されました。横須賀線の合造車の運用は1949年に終了していますので 005 は飯田線転出前に東ツヌあたりに一時的に転出していたかもしれません。006は 1947年の時点では東ツヌにいたものの、時期不明ですがその後 (おそらく 1952年以前に) 東ヒナに移り、さらに 1962.12.10に東カノに移動し、救援車代用として留置されていたようですが、1969.7.15に廃車になっています。007 は東ヒナから 1956.5 に東マトに移りますが、三河島事故で大破し、1962.9.8 に廃車となっています。なお、その後の横浜線の荷物輸送はクモニ13が担当していました。また常磐線では、事故で失われた 007の後釜として、青梅線からクハ55より改造された 67904 が東マトに呼ばれました。おそらく、首都圏の国電区間で荷物合造車が最後まで運用されていたのが常磐線で、67002 および 67904 が1969.9.4 に廃車になっています。67002 は新製配置以来松戸電車区を離れることはなく、おそらく松戸電車区のヌシ的な存在だったでしょう。
その後本車は、1952年に飯田線に転出し、郵便荷物合造ならびにセミクロスシート車に改造され、トイレも設置されました。
その後は31年の長きにわたり飯田線の小荷物・郵便輸送のため大いに活躍しましたが、新性能化によりその任をクモユニ147に引継ぎ引退しました。しかし、新性能化後まもなく、飯田線の小荷物・郵便輸送が廃止され、さらに国鉄自体郵便輸送の全廃と小荷物輸送の大幅縮小となり、クモユニ147自体その任を解かれてしまいます。
現在の飯田線は郵便輸送がなくなってしまったため、全線を通して運転される列車自体が極めて僅かになってしまいました。