省型旧形国電の残影を求めて

戦前型旧形国電および鉄道と変褪色フィルム写真を中心とした写真補正編集の話題を扱います。他のサイトでは得られない、筆者独自開発の写真補正ツールや補正技法についても情報提供しています。写真補正技法への質問はコメント欄へどうぞ

夜の帳に佇む飯田線クモハ53001 (豊橋駅)

 コロナ禍の2020年ももう過ぎようとしています。皆様この一年はいかがでしたでしょうか。予定されていた大みそか終夜運転も中止になりました。さてひと月ぶりに旧型国電の写真です。終夜運転中止の代わりと言っては何ですが、夜の旧型国電の写真です。こちらは、119系置き換え直前 (1983.6) の豊橋駅にたたずむクモハ53001です。確か、終電一本前の新城行だったと思います。当時、飯田線豊橋口は80系が主流であり、戦前型旧型国電は、早朝深夜と、あとは郵便荷物合造車をつないだ南北直通の数本に限られていたように思います。ただ出入り口の狭い80系が、混雑していた豊橋口にふさわしかったかどうかは疑問でしたが...

f:id:yasuo_ssi:20201203225105j:plain

クモハ53001 (静ママ)

 

 結構いい雰囲気に仕上がったと思いますが、画像編集には試行錯誤がありました。オリジナル写真は下に掲げています。フィルムはコダカラーのISO400を使い、三脚を立てフラッシュを使わずに2~3秒程度露光したと思います (フラッシュを焚いたコマもありましたが、いまいちでした)。

 

f:id:yasuo_ssi:20201203225218j:plain

オリジナル画像

 コダカラーはさすがに、フジのHR400とは異なり、フィルムの黄変のみじんもありません。ただ粒状性はかなり荒くざらつきが明確です。そこでGIMP上でNik CollectionのDefineを使い、ざらつきを緩和しました。それとオリジナルは床下もはっきりして資料性としては良いかもしれませんが、今一つ明るすぎて雰囲気がありません。そこで明度のトーンカーブをいじってみましたが、いじると下図のように青色の部分が妙に明るくなり浮いてしまいます。いろいろ試しましたが、なかなかうまくいきません。

f:id:yasuo_ssi:20201204224559j:plain

編集途中

 たまたま、一旦REC2020のリニアでTIFファイルとして保存してみて、それを何気なくカラーマネジメントのないIrfanViewで見てみると... 当然sRGBが前提のソフトなので、全般的に暗くなって表示されましたが、それと同時に、青い色がびしっといい感じに締まりました。色空間の狭い画像をRGBデータの変換を掛けずに、無理に広い色空間のプロファイルを適用すると、彩度が異常に上がりますが、ちょうどその逆がおこったのです。広い色空間の画像に無理に狭い色空間のプロファイルを適用したのと同様の現象が起こったわけですが、その結果、色の締まりが出たというわけです。

 というわけで、再度そのファイルをGIMPで読み直し、RGBデータを変換しないまま、狭いsRGBプロファイルを適用しました。広い色空間に変換したRGBデータに狭い色空間を強制的に割り当てることで、色を引き締めたのです。そしてトーンカーブ調整を行ったのが一番上の写真です。肉眼で見たイメージに非常に近くなりました。色つやも良く、昨日撮って来た写真のようです。

 ちなみに、保存する色空間を色々変えるための icc プロファイルの入手方法については、先日の記事をご覧ください。

 

最後は、例によって本車の車歴です。

1934.2.27 モハ43017 梅鉢製作所製造 大ミハ → 1948.11.17座席整備 → 1950.3.18 更新修繕I 吹田工→ 1950.5.22 東チタ → 1951.12.11 改番 & 出力強化 モハ43801 大井工→ 1953.6.1 改番 モハ53001 → 1956.3.8 更新修繕II 豊川分工 → 1958.2.21 静ママ → 1983.8.31廃車

 元々は京阪神国電区間用として製造されますが、戦後、当時国電としては全国トップの格を誇った横須賀線のモハ32置換え用として上京します。すぐ出力強化工事を受けますが、1958年に飯田線に転じ、その後25年間、四半世紀を伊那松島区のヌシとして活躍しました。1958年に飯田線に転じるのは、横須賀線の混雑が目立つようになる中、クモハ43, 53は横須賀-久里浜間のMcTc区間運用および、混雑が程度がひどくなかった付属編成の下りに集中配備するため、下り向きのみが残され、上り向き車両はすべて3扉の70系に置き換えられたためです。しかし、横須賀線に残されたグループはさらなる混雑の激化に対応するため、後年、結局3扉に改造されました。とはいえ43系は、1934年の製造から、1964年に111系に置き換えられるまで30年間、国電トップの座はゆるぎないものだったと言えます(80系は国電というよりは客車を代替した「列車」でしたので)。そして本車は、関西で16年、東京で8年、そして飯田線で最も長い時間を過ごしました。