省型旧型国電の残影を求めて

戦前型旧型国電および鉄道と変褪色フィルム写真を中心とした写真補正編集の話題を扱います。写真補正技法への質問はコメント欄へどうぞ

現役時代のクモハ11117 (1975.8)

 2021年、あけましておめでとうございます。果たして今年はどんな年になるやら... で本日は、ネットでは廃車後留置された姿はたくさん写真がアップされていますが、現役時代の写真は珍しい車両の写真をご紹介したいと思います。
 こちらは現在下関総合車両所(旧幡生工場)に廃車後留置されているクモハ11117の現役、可部線時代の姿です。可部線の17m級電車は密着連結器ではなく、自動連結器だったのが非常に特異でした。幌側は密着連結器のようなので、あるいは、混合列車のようにかつて可部線で電車が貨車を牽引するような使い方があったのかどうか... あるいは、山陽線非電化時代に幡生まで貨物列車で牽引する都合とも考えられますが、それでしたら宇部線も同じ条件のはずですが... もともとは日本初の鋼製電車モハ30で、誕生時はモニタ屋根でした。その後屋根は改修され、車号もクモハ11100番台に改番されました。日本初の鋼製電車ですので、本来なら明らかに鉄道記念物に指定されるべき存在ですが(クモハ11 0代はモニタ屋根の原形の旧モハ30でしたが屋根改修で番代消滅となりました)、あまり手入れもされずに留置されているようなので非常に残念です。本来ならば、京都の鉄道博物館が発足した際にそこに収蔵されるべき存在だと思うのですが...

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クモハ11117 (広ヒロ)

 

 さて、この写真も黄変していたものを復旧したものです。オリジナルはこちらです。

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補正前 オリジナル

 もともとはハーフサイズのフィルムです。黄変の程度はさほどではないですが、かなり広い領域に広がっています。但し、周辺部分の青紫化はありません。またBチャンネルの画像の崩れもあまりありません。損傷程度は中程度かと思います。前回のクハユニ56011のフィルムより古いですが、損傷程度はよりましです。これに、本サイトで紹介しているBチャンネル再建法で補正したものが下図です。

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Bチャンネル再建法適用後

 このままでもいいぐらいですが、どうせ余計な電柱を切るためトリミングしたり、水平を直したりしなければなりませんので、ついでにRawTherapeeに掛けてフィルムシミュレーションで若干色調を整えたりしたのが上の写真です。この程度の黄変だと、Bチャンネル再建法なら朝飯前の補正です。慣れてくれば、15~20分程度で一番上の写真の状態まで持ってこられます。

 

 写真を撮ったころは17m級国電の天下だった可部線ですが、その後中央東線115系に追われた山スカ モハ71一党が呉線にやってきたため、そこからさらに押し出された呉線の73系に押し出される形で引退を余儀なくされました。山スカの一党は、当時の鉄道雑誌の記事によると、当初中部山岳地帯での転用が検討されていたようですが、諸事情で断念され、呉線での転用になったとありました。おそらく、飯田線身延線あたりでの転用が検討されたのではないかと思います。当時飯田線車両基地はTcMMTcの4両基本編成を受け入れるだけのスペースがなく (のち1978年に80系が転属した際は、収容スペースを生むため豊橋機関区の改修工事が行われました)、身延線は中央線以上にトンネル限界が低いため(しかもPS-13はパンタ高が高い)支障があって*1、はるばる広島まで都落ちしたのでしょう。また、まだこのころの山陽本線は80系の天下でした。

 最後に例によってこの車の車歴です。

1927 デハ73323 川崎造船所製造 (東鉄配属 東カマ?) → 1928.10.1 改番30123 (東鉄) → ... →1953.6.1 改番 11035 (長キマ) →1955.2.25 丸屋根改造 長野工場 (長キマ) 11117改番→ 1958.7 広ウヘ※ →1958.8 →広ヨコ → (1962.10 広ヨコ→広ヒロ移管?) →1977.1.25廃車 (広ヒロ)

※1958.7広ウヘ転属は誤記の可能性あり。直接1958.8 長キマ→広ヨコの可能性も

 当初の配置は京浜線(→のちの京浜東北線)用だったようですが、いつ大糸線に転属になったかは不明です。また鉄道雑誌のバックナンバーを調べていたところ 1958.7 長キマ→広ウヘという情報と 1958.8 長キマ→広ヨコという情報がありました。一旦宇部区に行った後、横川電車区 (のちの可部線管理所)に転属になったのか、あるいは宇部区転属というのが誤記なのか突き止められませんでした。ただ当時の可部線は750V*2、それに対し大糸線信濃鉄道時代から1500Vだったので、降圧工事のため幡生工場に入場させるため、一時的に広ウヘ所属、もしくは貸与扱いになったようにも思われますが、明確なことは分かりません。また、可部線管理所から広島運転所への転属は、1962年10月に山陽本線が電化されて、検修が広島運転所に集約されたためのようです。なお最終全検は49(1974)-4 幡生工場でした。

 なお、ネットの情報では本車が根岸線に新製配備されたという誤った情報が多く書かれていますが、おそらくこれは幡生工場→下関車両所で車両公開の際に誤った情報を流していたためと思います。

 おそらく新製配置は蒲田電車区だったと思われますが、当時の蒲田電車区の担当は東京-桜木町間の京浜線でした。本車配置前の1925年に東北線の田端まで乗り入れるようになり、1932年にそれが大宮まで延長されるに至って、京浜東北線という通称で呼ばれるようになったようです。その後1964年に桜木町から先磯子まで根岸線が開通し、京浜東北線との直通運転が始まりました。従って根岸線時代には、モハ30の影も形もありませんでした。後年、蒲田電車区の担当が京浜東北根岸線になったので、関東の事情が分からない幡生工場関係者が情報を誤ったのでしょう。従って新製配置は京浜線が正解です。

 ちなみに、当時の国電区間で最も格が高かったのは京浜線でした。しかし、のちに東京-横浜ー横須賀を結ぶ横須賀線が電化されると、1等格は横須賀線に奪われてしまいます。また、今でこそ山手線は最初に新形式が配置されるなど関東では最重要路線に位置付けられていますが、当時は格が低く、戦前は木造車が遅くまで残り、戦後も103系投入直前まで遅くまで17m車が残っていました。その原因の一つは、都心部を走っているので車両基地の用地がなかなか確保できず、遅くまで大型車が投入しづらかったこともありますが、やはり路面電車に準ずるような格付けだったためかと思います。

 

*1:後に、身延線115系が投入されたときは、山用のPS-21でも足りず、パンタ部分を通常より下げた2600番台が投入されました。

*2: Wikipediaの記述による。なお、1500V昇圧は1962.4.23とのこと。