今回取り上げるのは、新前橋電車区にいたクモハ41044です。更新修繕の際、ヘッドライトの大型化(250W化)が実施されているにもかかわらず、なぜか埋め込みのままだったという珍車です。実は今回取り上げる車、以前のブログで取り上げていました。
blog.goo.ne.jp ですが、写真の色がおかしいまま掲載していました。今回、新たに開発した補正ツール、汎用色チャンネル再構成ツールなどを使って補正を掛けてみました。
では例によって本車の車歴です。
1938 日本車輌製造 → 1938.10.25 使用開始(東鉄) → (1947.3.1現在 東カマ) → (千ツヌ)→1953.12 東マト→1963.9.22 高シマ → 1978.6.28 廃車
データ出典: 『旧型国電車両台帳』『終戦直後の東京の電車』『鉄道ピクトリアル』バックナンバー
1938年に日車で製造され東鉄に配属になっています。本車はクモハ41の最終増備グループのトップナンバーで、初のリベットを使わない全溶接車体となっています。この後の40系の電動車は出力強化されたMT30を装備したモハ60にバトンタッチされます。ちなみに1947年の配属では蒲田電車区=京浜東北線になっていました。この時モハ41は主に山手線、京浜線、中央線に配備されていました。その後、おそらくモハ63の増備に伴ってか、一時モハ41の大半が集結する津田沼区へ移動しますが、この移動時期は不明です。ただおそらく1950~51年頃に掛けて、他線区に先駆けて京浜東北線の63系統一が進行したようなので(そして1952年にあの桜木町事件が起こる)、そのころ津田沼に移ったものと思われます。しかし意外に早く仲間と別れて津田沼を離脱し、松戸区に移ります。松戸区はモハ60の牙城でしたので、出力の小さい本車は肩身が狭かったのではないかと思われますが... そのためか、1963年に高崎ローカル(高崎-横川間)の列車の電車化用に早々に首都圏を都落ちし、その後15年間を高崎近郊で過ごしました。なお、高崎-横川間が電化されたのは1962年で、碓氷峠のアプト式廃止と同時でした。電化当初はEF53による客車列車や、ディーゼルカーによって区間運転が行われていたようですが、これを首都圏から都落ちした40系電車に担わせたのです。
因みに松戸には、後に新前橋で共に活躍するモハ30001, 3を含むモハ30全車が一時集結していましたが、本車の都落ちとほぼ同時期に東西に分かれて散っていきました。
クモハ41は出力の小ささのためか比較的早く淘汰された車両が多かったのですが、本車は、埋め込みヘッドライトと相まって比較的遅くまで残った貴重な車両でした。また早い時期に高崎地区に来たためか、室内のニス塗りが維持されていました。