本車は身延線では少数派だったクハ55です。身延線のクハ55もオリジナルは1両もなく、すべてサハ57からの改造車です。前に掲示したクハ55301とは異なり、常磐線の分割併合運転用に改造されたのではなく、地方転出を見据えて山手線時代に改造されたようです。そのためか、正面貫通路は手抜きの客用貫通扉転用ではなく、ちゃんとした正面貫通路扉が設置されています。
正面の塗分けは、一直線状でした。これは非貫通車と同じ塗分けです。
客室内は、同じロングシート3扉車でも、御殿場線から転用されたクモハ60とは異なり、ニス塗りが維持されていました。
本車の車歴です。
汽車会社東京支店製造 (57012) → 1933.12.11 使用開始 東鉄 → (1947.3現在 東シナ) → (1954.9~56.3現在 東マト) → 1957 更新修繕 大宮工 → (1957.3現在 東シナ) → 1961.3.24 改造 大船工 (55321) → 1961.11.18 東モセ → 1962.3.21 静フシ → 1963.10.19 東ミツ → 1966.3.30 静フシ → 1968.12.19 改番 (55440) → 1969.4.11 静ヌマ → 1982.1.21 廃車 (静ヌマ) [51-12 大船工]
本車は1933年、関東向け40系投入時にサハ57012として製造されました。サハ57は人口が多く、かつ電鉄間競争の少なかった関東向けに製作されました。サハ57の大半は、国家総動員体制が作られ、乗客が急増した1940年以降に製造されましたが、本車は最初(1933年)に製造されたサハ57の末番でした。
1947年の時点では山手線で使われていましたが、1950年頃に山手線から20m3扉車が一掃された際に、常磐線へ移った模様です。1957年に更新修繕を受け、おそらくその際に再び山手線に復帰したようです。山手線時代にクハ化改造を受け、山手線の101系投入開始で京浜東北線に移りますが、京浜東北線ではやはり3扉車が不都合だったのか、半年もたたず富士電車区に移ります。しかし、富士電車区受け持ちの東海道ローカル運用の静岡運転所80系移管による運用減の余波を受けてか、再度首都圏 (三鷹区、東京-高尾間は101系化されていたので、おそらく中央東線用) に舞い戻り、その3年後また富士電車区に戻ってきます。その2年後55440に改番されます。なお、『国鉄電車ガイドブック 旧性能電車編』によりますと、トイレ設置工事は、最初に富士区に転出した際(1962~3年)に既に実施されていたようです。仮に転出後工事されたとすれば、施行工場は静鉄所属なので豊川分工場だった可能性が高いですが、転出前に大井工場や、大船工場あたりで施行された可能性も否定できません。
しかし、その3年後、長野原線向けにトイレ設置工事をした55332 (大井工場施行) にだぶって同じ番号を振るというミスが発生します。こちらの方は後に55442に改番し直されました。このミスの遠因は1967年に首都圏からクハ55を大糸線に転属させる際に大井工場でトイレ付改造を行って送り出しました。その時改番の際、クハの偶数向き、奇数向きにかかわらず、一連の番号を振ってしまい、1968年に番号の振り直しを行います。その後、その続番で本車が改番されますが、おそらく施行工場が異なっていたため、大井工場側が55440という番号が既に使われていることを認識せず自工場で施行した車両に55440という番号を振ってしまったため起こったミスと思われます。さらに良く考えると、本車は奇数向きでしたので、そもそも55440という番号を与えること自体まずかったはずです。大井工場側も、身延線のクハは奇数向きなので、55440という番号は使われていないはず、と思ったのかもしれません。
それはともかく、その後12年間身延線を走り続け、1982年に廃車となりました。