省型旧形国電の残影を求めて

戦前型旧形国電および鉄道と変褪色フィルム写真を中心とした写真補正編集の話題を扱います。他のサイトでは得られない、筆者独自開発の写真補正ツールや補正技法についても情報提供しています。写真補正技法への質問はコメント欄へどうぞ

元関西向けモハ60をセミクロス化した 飯田線 クモハ54125 (蔵出し画像)

 こちらは飯田線、旧形国電末期の旅客輸送を地道に担った、多数派のクモハ54の1両です。80系投入後、旧形国電末期の飯田線の輸送の主力だった1両です。飯田線に行くには泊りがけで行かなければなりませんので、なかなか訪問することができず、今見ても納得の行く写真が撮れていないケース、あるいは1枚も姿を写すことができなかった車輌もあり、もっと行けばよかったと、今から考えても残念です。

 クモハ54125に関してはこの2枚しか写真が撮れませんでした。残念ながら両方共1-3位側で、2-4位側の写真は撮れていません。しかも電柱が支障になっているものの、多少まともだった上の写真は、痛恨の現像失敗... 先日、補正方法を考えて、ようやく日の目を見た写真です。

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クモハ54125 (静ママ) 1981.8 伊那松島機関区

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クモハ54125 (静トヨ) 1976.5 豊橋駅

 本車は運転台左側の窓にRがついているのが特徴でした。右側の窓が写っていませんがHゴム化されていました。なお写っていない2-4位側の客用ドアの形状ですが、他の方が写された写真を見ると1-3位側と同じだったようです。また運転台右側の窓もHゴム化されていたようです。

本車の車歴です。

1943.7.1 汽車會社東京支店製造 (モハ60094 奇数向き) →  1943.9.20 大ミハ → 1944.9.30 座席撤去  → 1948.10.2 大ヨト → 1948.11.9 座席整備 → 1950.9.30 大ミハ → 1955.11.4. 更新修繕I 吹田工 → 1956.3.1 大タツ → 1962.5.2 大アカ → 1967.4.2 静トヨ → 1978.10.13 静ママ → 1984.2.10 廃車 (静ママ)

 本車は、モハ60として製造されました。宮原区は当時京阪神緩行線だけでなく、ガソリンカー全焼事故後、急遽電化された西成線も担当していたようですので、西成線用に投入されたのかもしれませんが、戦時体制下だったので、もはや区別なくロングシート車が使われていたのではないでしょうか。実際城東線用40系になかった京阪神緩行線用と思われる列車種別表示用サボ受けがあります。ちなみに大阪向きの電車は当初のモハ40一党を除くと概ね在阪企業もしくは名古屋の日本車輌で製造されることが多かったのですが、モハ60は、東京もしくは日本車輌で手がけられた車輌が多かったです。また『関西国電50年』(1982, 鉄道史資料刊行会)に掲載されている写真によれば、1941年以降に投入されたクモハ60は、大阪向きの車両でも東京と同様、幌がなく、関東と同じ姿になっています。おそらく貫通路扉も関東同様の開き戸に変更されたものと思われます。同書の記述によれば、既存の車両の幌も使用が中止されたようです。

 これらの車輌は戦後全てセミクロスシート化され51系に編入され、本車は54125に改番されました。本車は座席撤去後、一時的に城東・片町線に移りますが、座席整備後再度京阪神緩行線に戻ります。そして他の51系車輌と同様、高槻電車区開設で高槻に移動し、さらに宮原から高槻へ80系が移動してくると、明石電車区に移動します。そして関東から捻出されてきた73系に押される形で、飯田線に移動します。飯田線では豊橋機関区で活躍しますが、78年の80系の豊橋への投入で伊那松島に移動します。そして飯田線の旧型国電の終焉まで地道に目立つことなく乗客輸送に当たりました。

 ところで上の写真、現像の失敗でオリジナルは以下の左のようでした。これを先日紹介した技法を使って右のように補修しました。

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補正前と補正後の比較