省型旧形国電の残影を求めて

戦前型旧形国電および鉄道と変褪色フィルム写真を中心とした写真補正編集の話題を扱います。他のサイトでは得られない、筆者独自開発の写真補正ツールや補正技法についても情報提供しています。写真補正技法への質問はコメント欄へどうぞ

中央西・篠ノ井線でようやく先頭に立てたクモハ43802 (一部蔵出し画像)

2023年、新年あけましておめでとうございます。

 毎年、今年こそはいいことがありますようにと祈ってはいますが、どうも社会全体としては年々悪化の一途をたどっているようで、心配です。昨年のせめてもの慰めとしては長年蓋をされてきた統一教会問題が再び明るみに出た、程度でしょうか。とは言え、1980~90年代には活発な批判報道があったのが、その後蓋をされてしまい、それが再び盛り返した程度であり、退歩を重ねる中でのわずかな一歩前進といったところでしょう。

 さて、今年の正月も例年通り旧形国電の紹介から始めたいと思います。こちらは中央西線篠ノ井線 上松ー木曽福島ー松本ー明科ー聖高原(麻績)間のローカル運用に使われていたクモハ43802 (長キマ) です。本車は長らく身延線で使われていましたが、アコモ改善車 62系の投入により、北松本運転支所に転出し、それまで気動車や列車で運用されていた中央西線篠ノ井線のローカル電車運用に転じました。本来は2年前に移ってくる予定でしたが、62系の完成が遅れて、1975年3月改正で北松本に移ってきました。

 本車は身延線時代はもっぱら中間車代用として使われており、ほとんど先頭に立ったことはなかったはずです。というのは身延線には横須賀線から転出してきた元サロのサハ45が5両あり、1970年以前に身延線の主力であったクモハ14800代は非貫通だったので、中間に入ってサハ45と連結するのには不都合がありました。そのため、前面に幌を備えていて、かつ半室運転台だった、3輌のクモハ43800代と2両のクモハ51850代がもっぱらこの中間車の役割を務め、身延線の4両貫通運用を担いました。他に幌付きのクモハ51802, クモハ43810, クモハ41800、クハ68001, 017, 019がやはり4両貫通運用の中間に入ることが多かったと思われます。しかし全室運転台のクモハはまだ先頭に立つ機会がありました。

 しかし、4両固定の 62系が転入してきたことで、サハ45中3両と、幌付きのクモハ43800代とクモハ41800、クハ68らが中央西線篠ノ井線のローカル用として転じました。中央西線篠ノ井線ローカル運用は2両運用だったので、サハ45は大糸線運用に転じ、それで捻出された主としてトイレなしのクハ55と、身延線から移ってきたやはりトイレなしのクハ68および低屋根電動車でこの運用を担当しました。

 身延線で日の当たらない中間車代用専門だった本車もようやく日の当たる先頭車運用に就くことができました。その晴れ姿が下の写真です。

クモハ43802 (長キマ) 1977.7 明科

 中央西線篠ノ井線のローカル用の車輛は、交番検査時のみ北松本支所にもどり、それ以外は松本運転所本所に常駐していました。下は日中本所で休む姿です。運転台貫通扉に通風孔の蓋が見えます。本車は1933年度末に竣工していますが、このころまで通風器が設置されていなかったので、その代わり正面に通風孔が設けられていたのだと思います。

 幌枠は原型通りです。

クモハ43802 (長キマ) 1977.7 松本運転所

 下は運転台部分です。半室運転台が維持されていましたが、それもあって身延線ではもっぱら中間車代用になっていたものと思われます。これはクモハ51850代も同様でした。運転台にはしっかりデフロスターが備えられてたのですが、身延線では宝の持ち腐れでした。

クモハ43802 (長キマ) 1977.7

 また、室内はモスグリーンに塗り替えられていました。これは43800代、51850代共通でした。あるいはサハ45が横須賀線サロ時代からペイント塗になっていましたので、それと連結するということでそうなったのかもしれません。

クモハ43802 (長キマ) 1977.7

 下は、聖高原から1222Mで松本に戻ってきたところです。

クモハ43802 (長キマ) 1977.7 松本駅

 下は、松本運転所で留置中です。留置状況を見ると、この時は予備車扱いで留置されていたようです。

クモハ43802 (長キマ) 1976.10 松本運転所

 

クモハ43802 (長キマ) 1976.10 松本運転所

 下はパンタグラフ側連結面。全検が 50-7 長野工になっています。なお、長野工場全検施行車では、第1エンドと第4エンド端にご覧のように フ という文字が書かれていましたが、これは何の意味だったのか... ? 他工場全検施行車では見られなかったと思います。

クモハ43802 (長キマ) 1976.10 松本運転所

 空気側床下です。

クモハ43802 (長キマ) 1976.10 松本運転所

 前部床下。車輪はスポークです。

クモハ43802 (長キマ) 1976.10 松本運転所

 クモハ43802が中央西線篠ノ井線のローカル運用に就いていたのは、1975年3月から77年8月までの僅か2年半余りでした。1977.8.10に115系増備の余波を受けて、この運用は80系に交代することになりました。同僚の中にはその後大糸線に転用されて生き延びたものもありましたが、本車は電動発電機の容量が1kwと小さかったため(おそらく暖房効果が弱い)、残念ながら生き延びることができませんでした。

 

本車の車歴です。

1934.3.2 川崎車輌製造 (モハ43022) 偶数向き → 1934.7.16大ミハ→ 1944.7.18 座席撤去 → 1948.11. 18 座席整備 → 1950.2.28更新修繕I (吹田工) → 1950.9.16東チタ → 1955.11.21更新修繕II(豊川分工) → 1960.4.20 東イト → 1964.2.5 静ママ→ 1965.3.3※低屋根化改造(浜松工)および改番(43802) → 1965.3.10 静フシ → 1969.4.11 静ヌマ → 1975.3.4長キマ → [75-7長野工全検] → 1977.9.9廃車 (長キマ)

※車歴簿確認データでは3.3、『関西国電50年』では3.9

 本車は川崎車輌でモハ43022として製造され、京阪神間の急行、各停運用に使われました。途中、座席撤去などはありましたが、4扉化改造を逃れ戦後を迎えます。しかし、1950年、一族の一斉の上京で横須賀線に転じます。1957年に横須賀線のクモハ43、53は偶数車に統一されますが、偶数車だったの本車は残ります。しかし、1960年、京阪神緩行線用の70系の横須賀線転用を契機に他の仲間と離れ、伊東線に転じます。おそらく、混雑が激しくなって、2扉だったクモハ43, 53は横須賀ー久里浜小運転用に必要な数に絞ったものと推測します。旧流電のサハ48も残されましたが、これは地方線区への転用が難しかったことや70系にサハが作られなかったためかもしれません。

 その後、1964年、当時伊東線はドル箱路線であるとともに伊豆急行との直通運転も行われていたことから、早い時期の113系化が決定し、本車は飯田線北部に転じます。デフロスターもこの時設置されたのでしょう。しかし1年後、おそらく身延線へのサハ45の転入で中間に入る電動車がなかったためか、身延線に転じることになり、低屋根化改造を受けます。その後の経過は上に書いた通りです。なお、スカイブルーに塗り替えられたのは、1975年7月の全検時と思われます。

 なお、中央西線篠ノ井線の当時のローカル運用については下記の記事をご覧ください。

yasuo-ssi.hatenablog.com