省型旧形国電の残影を求めて

戦前型旧形国電および鉄道と変褪色フィルム写真を中心とした写真補正編集の話題を扱います。他のサイトでは得られない、筆者独自開発の写真補正ツールや補正技法についても情報提供しています。写真補正技法への質問はコメント欄へどうぞ

身延線から大糸線にやってきた サハ45005 (蔵出し画像)

 今回は大糸線の車輌を紹介しますが、身延線と御縁のあった車輌です。本車はもともと横須賀線用のサロ45として製造されましたが、横須賀線引退後身延線に移り、さらに大糸線に移った車両です。

サハ45005 (長キマ) 1977.7 北松本運転支所

 写真をご覧になるとお分かりになると思いますが、本車は横須賀線身延線由来の両支持形の幌が維持されていました。ただ、基本的に大糸線は片支持形の幌を使っていましたので、本車の偶数側(3-4エンド側)と他車の奇数側を連結する際は、追加の幌をかませて連結していました*1

サハ45005 (長キマ) 1980.8 松本駅

サハ45005 (長キマ) 1977.5 信濃大町駅

 なお、2-4位側の写真しか取れていませんが、他の方の写真によると1-3位側の客用ドアも桟入りのプレスドアだったようです。また45008と同様1位側腰板に入替え作業用の手すりもあったようです。

サハ45005 (長キマ) 1977.5 信濃大町駅

 こちらは、サハ45005の客室内写真です。サハ45は既に横須賀線サロ時代にペイント塗りつぶしになっていたものと思われ、サハ格下げでそのままモスグリーン(淡緑1号)の塗りつぶしになっていました。おそらくサロ時代はピンクがかったクリームに塗られていたものと思われます。また床も写真にみるように木ではなくリノリウム張りになっていました。座席等はサロ時代そのままですので、本車の大糸線転入で、1970年代のモータリゼーションの進展による乗客減少下の大糸線にあって、乗客サービスの向上にもつながったと思います。

 因みに、客室内ペイント塗りつぶしの起源は、戦後の連合軍専用車にあったようで、Wikipediaのモハ32系の記述によると「車内は薄い緑色と緑がかったクリーム色に塗装された」とあります。さらにニス塗りの車両は、ニスを塗り重ねるとだんだん色が濃くなって車内が暗くなるという特徴があり、それもあってサロ45は比較的早い時期にペイント塗になっていたのではないかと推測します。同じ横須賀線サロ格下げのサハ75の中にはニス塗りが維持された車両もあったようですが (なおサロ46(→75)の増備車では最初からペイント塗のものもあった)、それらの車両はニス塗り重ねの回数がまだ浅く、車内がそこまで暗くならなかったので維持されたものと思われます。

 ペイント塗の一般車への普及は、本車のような旧2(1)等車の格下げが最初で、関東では1966年ごろからそれ以外の一般車にもペイント塗が始まったようで、それ以外でも1966年の瑞浪電化で電車化された中央線・名古屋口の70, 73系でもペイント塗車両は出ていたようです*2。一方大阪では、関東からの転入車のペイント塗維持以外は、積極的に進められなかったように思います。

では、本車の車歴です。

田中車輛製造所製造 (サロ45005) → 1931.4.25 使用開始 東チタ → 1960.4.20 東フナ → 1965.2.21 静フシ → 1965.3.1  改番 (サハ45005)※  → 1969.4.11 静ヌマ → 1975.3.6 長キマ  → 1981.6.20 廃車 (長キマ)

※旧形国電台帳では1964.8.31とあるが誤り?

 本車は横須賀線用サロ45005として大阪の田中車輛(のち近畿車両)で製造されました。途中横須賀線車輛の大船区への移動がありましたが、70系の時代も含めた34年の長きにわたって横須賀線を走り続けました。しかしついに113系の投入で都落ちし、過去横須賀線車輛が多く移動していった富士電車区に移ります。余生をそのまま身延線で送るかと思われましたが、1975年に松本運転所北松本支所に移動します。

 本車はもともと1973年の篠ノ井線松本ー長野、中央西線中津川-塩尻間の電化とともに身延線から北松本に移る予定でしたが、身延線へのアコモ改善車62系の投入が遅れ、2年後の1975年3月篠ノ井線電化に合わせて、北松本運転支所に移りました。北松本転属後、本車は大糸線4両運用に組み込まれ、それによって捻出されたトイレなしクハ55が中央西・篠ノ井ローカル運用に転用され、本車とともに北松本に移動した低屋根電動車とコンビを組むことになりました。捻出されたクハ55は、1977.8.10の中央西・篠ノ井ローカル松本本所80系置き換えで失職して一足先に廃車、一方本車は1981年の大糸線旧形国電置き換えまで活躍しました。

*1:片支持形の幌の場合、ジャンパ栓受けとは反対に、偶数側で幌を持っていたため。

*2:例えば、以下のネット上のページでは、1966年6月に電化開業した中央線名古屋口の70系の室内がペイント塗されている写真が掲載されています。

http://mokugoho.web.fc2.com/2sub11.html

写真から見る限り、中央線投入で新規にペイント塗に変えたようです。横須賀線から転用される際に、大船工場もしくは大井工場で施行したのか、それとも浜松工場で施行したのかは分かりませんが。御殿場線のクモハ60他もこれに倣ったものと思われます。