省型旧形国電の残影を求めて

戦前型旧形国電および鉄道と変褪色フィルム写真を中心とした写真補正編集の話題を扱います。他のサイトでは得られない、筆者独自開発の写真補正ツールや補正技法についても情報提供しています。写真補正技法への質問はコメント欄へどうぞ

大糸線で八面六臂の活躍をしたクモハ40077 (蔵出し画像)

 こちらは大糸線末期に、クモユニ81を除くと唯一の両運転台車だったクモハ40077です。この車は大糸線ロングシート車中、唯一運転台側に幌枠がつけられていた車両です。両運転台の上幌付きということで、かなり重宝されて、八面六臂の大活躍をしました。車両の状態も良かったのではないかと思います。北松本運転支所にはクモユニ81は一両しかなく予備車がありませんでしたが、クモユニ検査時は本車が代走も務めたようです。MT-15を搭載したロングシート車では唯一旧形国電最後まで使われた車両となりました。

クモハ40077 (長キマ) 1980.8 松本

 運転台側面窓の下に通風器が残っています。半流のクモハ40の中では、本車と西トタのクモハ40061のみに残されていました。

クモハ40077 (長キマ) 1980.8 南小谷

 上の電車に乗って南小谷まで乗り通し撮影した写真です。糸魚川から来たキハ28または58と顔合わせしました。今やJR西日本管轄の南小谷糸魚川間の廃止論も出ていますが...

クモハ40077 (長キマ) 1980.8 南小谷

 南小谷駅跨線橋から、屋根を見ます。奥には、糸魚川からきた来たキハ58、そして右側には急行アルプスの165系が... あれほどたくさんの登山客を乗せて走った急行アルプスも、全く過去のものになりました。

 

クモハ40077 (長キマ) 1977.7 北松本運転支所

 3-4位側です。こちら側には、ジャンパ栓受がない代わりに片支持式の幌が常備されていました。

クモハ40077 (長キマ) 1977.7 北松本運転支所

クモハ40077 (長キマ) 1977.7 北松本運転支所

 なお、上の写真を見ると客用扉の扉の引き込み口が二重になっているように見えているのがわかるでしょうか。これは大糸線の旧形国電に設置されていた、雪の吹込みを避けるための、雪除けです。扉を開くときはこの雪除けと扉の間に隙間ができますが、扉を閉めると、雪除けが扉の開口部を密閉する構造になっていました。これにより雪が吹き込んで扉が開かなくなる事故を防止するというものです。この器械式雪除けが施行されたのはおそらく1968年に転入してきた本車が最後と思われます。1970年以降に転入した車輛にはこの器械式雪除けの代わりに、ゴムを張って、開口部をなるべく塞ぐように変更されました。

クモハ40077 (長キマ) 1977.5 信濃大町

 こちらは客室内です。3-4位側の運転台です。向こう側はサハ45です。

クモハ40077 (長キマ) 1977.5 信濃大町

 4両運用の中間車として入ったクモハ40です。両側に幌を備えていたので、クハ45や57に繋げられる中間車代用としても活用されていました。先頭車に、クモユニ代用、中間車代用と八面六臂の活躍をしていました。

クモハ40077 (長キマ) 1977.5 信濃大町

クモハ40077 (長キマ) 1981.5 北松本運転支所

クモハ40077 (長キマ) 1981.5 北松本運転支所

 この上の2枚は非常に珍しい写真です。というのは大糸線では片支持形の幌を採用していましたが、片支持形の幌というのは、ジャンパ栓受が奇数側に付くのに対し、幌を設置する側は偶数側でした。幌を指示するステイ金具も偶数側に付きます。ところが、この写真では奇数側に幌がついています。

 おそらく直前までサハ45とコンビを組んでいて、入れ替えで切り離された直後ではないかと思います。というのはサハ45は、大糸線転入後も身延線時代の両支持形の幌のままでした。因みに身延線の車輛は横須賀線伊東線から移ってきた車輛が多かったため、そこで採用されていた両支持形幌がそのまま受け継がれました。両支持形の幌だと、下り寄り、第3-4エンド側に片支持タイプの車両を連結しようとすると、幌の長さが足りません。そのため、サハ45の下り側に連結する車両(奇数車)は、本来ないはずの幌を延長のため取り付けないといけません。そのため、奇数側(上り側)にも関わらず幌が一時的に取りつけられている姿だと思われます。

 

最後に本車の車歴です。

1936.3.9 川崎車輛製造 東鉄配属 → (1947.3.1現在 東イケ) →  (1954.10.1現在) 東カノ → 1960.3 東イケ  → 1963.10.1 東フナ → 1968.6.27 長キマ → 1981.10.21 廃車 (長キマ)

 本車は、1935年度に川崎車輛で製造され、東鉄に配属されました。1947年現在では池袋区にいますので、おそらく新製後からその当時まで山手線に配置されていたのではないでしょうか。さらに、1954年には中野電車区にいます。おそらく1950年頃、山手線が20m4扉車と17m3扉車に統一されたため (20m車3扉ではラッシュ時の混雑をさばききれないとの判断があったものと思われます)、総武・中央緩行線の増結用として移ったものと推定されます。その後1960年に池袋区に移りますが、山手線に3扉車が活用されたとも思われないので、赤羽線用として移ったものと思われます。赤羽線新性能化後、大船区に転出しますが、横須賀線東海道線で旅客用に使われたとは思われないので、事業用車代用もしくは荷電代用ではかったかと思われます。あるいは職員輸送用でしょうか。関東では幌が取り付けられる必然性がなさそうなので、幌が取り付けられたのは、おそらく長鉄転出後ではないでしょうか。当時北松本は、基本的に20m化が終了し、3両のサハ57(400~402)もいて、McTTMcで編成を組んでいたと思われますので、上り、下りのどちらについても大丈夫なように、あるいは本車を導入してTcMcTMcの編成が組めるように、両側に幌枠をつける改造を受けたものと推測します。また、本車転入後、クモハユニ44000 (のち44803) が北松本から富士に転出していますので、元々クモハユニ44000の代役として入ったものと思われます。つまりクモハユニ64000の予備車として使われることが前提だったわけです。そして1970年の8月に64000が81003と交代して、撮影当時に至ったわけです。

 そして、大糸線旧形国電の終焉の日まで大車輪で活躍しました。