省型旧形国電の残影を求めて

戦前型旧形国電および鉄道と変褪色フィルム写真を中心とした写真補正編集の話題を扱います。他のサイトでは得られない、筆者独自開発の写真補正ツールや補正技法についても情報提供しています。写真補正技法への質問はコメント欄へどうぞ

凍てつく冬の辰野駅に佇む飯田線クモハ54127

 下の写真は、凍てつく厳冬の辰野駅に進入するクモハ54127 です。茅野発平岡行き238Mとして6 輛編成でやってきました。以前掲げたことのある写真ですが再編集しました。

クモハ54127 (静トヨ) 1978.1 辰野

 この日クモハ54127は豊橋機関区53運用についていました。伊那松島機関区 71, 86 運用を従えてやってきました。この時の編成をメモから再現しますと、茅野発平岡行238Mで、[53運用]54127+68042 + [77]47011+54106 + [79]51027+68402という編成でした。ここ辰野で[79]を切り離し、伊那松島で[77]を分離し、[53]運用単独で平岡へ向かう予定でした。編成の後ろには辰野駅のテルハが見えます。かつては主要駅のどこにでもありましたが、これも荷物・郵便輸送がなくなって、消えてしまった駅の風景です。

 関西でHゴム化が進行する前に、関西から飯田線に転入してきたため、運転台や戸袋窓にHゴムはなく綺麗な姿です。またパンタグラフも原形の PS-11 でした。ただし、運転台助士席側窓は隙間風対策で2段から1段に改修されています。

クモハ54127 (静トヨ) 1978.1 辰野

 なお、2-4位側の写真が撮れていませんが、他の方の写真を見ると客用扉の形状は、1-3位側と同じだったようです。

本車の車歴です。

1943.7.17 汽車会社東京支店製造 (モハ60095) → 1943.9.20 使用開始 大ミハ → 1944.5.31 座席撤去 → 1948.9.3 大ヨト → 1948.12.19 座席整備 → 1950.11.14  大ミハ → 1953.6.1. 改番 (モハ54127) → 1954.3.21 大アカ → 1955.10.13 更新修繕I 吹田工 → 1965.7.13 静トヨ → 1978.12.20 廃車 (静トヨ)

 本車は元々関西向けモハ60として汽車会社東京支店で製造されました。因みにモハ60のうち関西向けとして製造されたのは、60026 - 60042, 60090 - 60111 で、このうち、60026 - 28 の3輌は1次形ノーシルノーヘッダー、他はシルヘッダー付きで、1943年に投入された 60093以降は、110 を除いて番号にかかわらず奇数向だったようです。なお、クハ55の末期に関西に投入された、55097以降も奇数車だったようで、なぜ奇数車ばかり関西に投入されたのかよく分かりません。あるいは、最初に城東・片町線に投入されたモハ40 (偶数側にパンタグラフ) の片運化計画などを配慮してのことだったのかもしれませんが。なお、関西向きのモハ60は、戦災や事故廃車、もしくは戦後早い時期に関東に転出した車輛を除くと大半が後にセミクロスシート化され、クモハ54に改造されました。本車もその1輌です。その理由は、モハ60の内一定数が宮原区に配置されたのということと、モハ43, 42 のかなりの数が4扉化され、城東・片町線に去って行ったのとの引き換えだったと思われます。

 ロングシートでしたが、製造後初配置は宮原区です。あるいはガソリンカー事故後急いで1941年に電化された西成線用として配置されたのかもしれません。当時西成線の担当は宮原区でした。しかし京阪神緩行線用に、列車種別表示用サボが設置されています。その後、戦後一時的に淀川区に転出しますが、基本的には京阪神緩行線用として使われます。そして京阪神緩行線セミクロスシート復活の方針で、セミクロスシートに改造され、1953年の形式称号改正でクモハ54に編入されます。しかし、1965年に17m車淘汰のため飯田線に転出、その後は継続して豊橋区で使用されました。しかし、1978年の豊橋区80系化で、伊那松島に転出することなく廃車となりました。