70, 113, 115, 211, 313, 225, 227系など 3扉セミクロスシート車の起源となったのは、1935年に登場したクモハ51です。元々は、高尾山へのハイカーで賑わった東京圏中央線のサービス向上のため投入され、中央線の一番下り側 (偶数) に連結されました。中央線にはモハしか投入されませんでしたが、のちに京阪神緩行線用にも投入され、関西には付随車 クハ68 や クロハ69 も投入されました。またモハユニ44 の増備として横須賀線に投入された モハユニ61 も、グループの中では唯一関西とは縁がありませんでしたが、形態的には 51系に入ります。
戦後、最初に関東に投入されたモハ51は、4扉車に追われて、モハ42, 43一党と交換で関西に行くことで、51系の大半が関西に集結し、国鉄の内部では大阪形とも称されました。今日首都圏から3扉車の大半が一掃され4扉車に置き換わっている一方、関西のJRでは逆に4扉車の活躍の場がが少なくなっているのを見ると、歴史は繰り返しているようです。
本車は関西向きに投入され、クモハ51のうち最後まで残った車両です。飯田線では 1978 年に 80系が導入された際、たくさんいたクモハ51の大半が、出力100kw の MT-15 だったため、廃車に追い込まれてしまいました。その後、1981年にクモハ51 の牙城だった身延線と大糸線で旧形国電が引退に追い込まれ、本車が唯一最後まで残ったクモハ51 となりました。
昔撮った写真を探しましたが、最後まで残ったにもかかわらず、写真は 1977 年に撮ったこの写真 1 枚のみ。しかも撮ったのは豊橋でした。もっと撮っておけばよかったのですが...
なお、2-4エンド側が写っていますが、1-3エンド側の客用扉は、両端が桟つき、真ん中が桟なしだったようです。こちらは4エンド側の客用扉が桟なしになっています。
本車の車歴です。
1937.2.27 日本車輛製造 → 1937.5.8 使用開始 大ミハ → 1937.9 大ヨト → 1939.3 大アカ → 1941.11.8 大ヨト → 1943.3.11 大アカ → 1944.8.3 座席撤去 → 1948.12.9 座席整備 → 1954.3.31 更新修繕I 吹田工 → 1954.11.28 大ミハ → 1951.3.1 大タツ → 1965.3.4 長キマ → 1966.6.5 静ママ → 1983.11.29 廃車 (静ママ)
本車は日本車輛で製造され、1937年に京阪神緩行線用として配置されます。51系の仲間は、1937年12月に明石区が開設されるとほぼ全車そちらに移動しますが、本車は明石区開設前になぜかロングシートで揃っていたはずの城東・片町線に転出します。その後、淀川区と明石区の間で玉突き扱いされましたが、座席撤去以降は京阪神緩行線に定着します。しかし、1965年に関西での生活を終え、大糸線に転出します。おそらく 17m 車淘汰のために投入されたものと思われます。しかし、ロングシート17m車で揃っていた大糸線では設備過剰と思われたのか、すぐ伊那松島区に移り、その後 17年余りを飯田線で過ごすことになりました。