省型旧形国電の残影を求めて

戦前型旧形国電および鉄道と変褪色フィルム写真を中心とした写真補正編集の話題を扱います。他のサイトでは得られない、筆者独自開発の写真補正ツールや補正技法についても情報提供しています。写真補正技法への質問はコメント欄へどうぞ

新潟国電第1陣 元クロハ59, クハ68021 (蔵出し画像)

 今回は新潟地区で活躍していたクロハ59を改造したクハ68です。本車は新潟地区電車化のパイオニアとして、1962年に関西からやってきた車輛です。第1陣は10輌ほどの陣容だったようです。この当時まだ関西地区はHゴム化や関西型通風器などの独自の改造を行っていませんでしたので、比較的原形に近い端正な姿が維持されていました。その一方で新潟地区独特の重厚な耐寒耐雪装備がなされ、ドアレールへのヒーターの埋め込みや新潟地区独特のおでこに埋め込まれたタイフォンカバー、つらら切り、スノープラウなどが見られます。

 内部はご覧のように、ニス塗りのままでした。これは68044とは異なり直接関西からやってきたためです。

クハ68021 (新ナカ) 1976.8 長岡

本車の車歴です。

1934.3.31 川崎車輌製造 (クロハ59015) 大ミハ → 1942.5.19 改造 吹田工 (クハ68035) → 1944.11.22 改造 (座席撤去) 吹田工 (クハ55149) 大アカ → 1948.12.14 座席整備 → 1951.11.30 大ミハ → 1953.6.1 改番 (クハ68021) → 1956.3.1 大タツ →  1957.3.31 更新修繕I 吹田工 → 1962.4.27 新ナカニ → 1967.11.15 新ナカ → 1976.10.7 廃車 (新ナカ)

※車歴資料は『関西国電50年』より。

 本車は元々43系のクロハとして製造されました。向きは奇数でした。しかし、戦時中の2等車の廃止と戦時動員による増客増を受けて、1942年には3扉車に改造されクハ68に編入されます。この時クロハ59は全車3扉車に改造されました。さらに戦況が進み、座席撤去を受け今度はクハ55に編入されます。この時宮原区から明石区に転属となります。戦後、座席整備を受け、さらに京阪神緩行線クロスシートの復活方針により宮原区に復帰、そしてセミクロスシート化後、再度クハ68に編入されますが、この時以前とは全く別の番号が振られることになりました。その後高槻区が開設されるとそちらに移ります。

 しかし1962年5月に信越線の長岡-新潟間が電化されることになり新潟から高崎までが電化区間となることが決まると、新潟地区の電車化トップバッターとして、関西に配備された一部のモハ70とともに長岡第2機関区に送り込まれることとなりました。当初はブドウ色 (褐色) のまま活躍したようです。新潟に移ってすぐ三八豪雪に遭遇します。

 そこでの経験からかなり重厚な耐寒耐雪装備や、新潟色と言われる雪の中でも派手に目立つ塗色が採用されるようになったと思われます。ただこの三八豪雪で電車の機動性が評価され、横須賀線などからも追加の70系が送り込まれるようになりました。そして1967年の長岡運転所への改編を経て14年間新潟地区で活躍しましたが、1976年、後進の115系に道を譲って引退しました。その115系も今はありません。