省型旧形国電の残影を求めて

戦前型旧形国電および鉄道と変褪色フィルム写真を中心とした写真補正編集の話題を扱います。他のサイトでは得られない、筆者独自開発の写真補正ツールや補正技法についても情報提供しています。写真補正技法への質問はコメント欄へどうぞ

遅れて新潟地区にやってきた クハ68044 (蔵出し画像)

 本車は新潟地区で活躍していたクハ68です。最近越後ときめき鉄道でもリバイバルカラーの車が出ていますが、有名な元祖新潟色をまとっています。もともと新潟地区は1963年に関西地区から移ってきたクハ68+モハ70で電車化されましたが、当初はブドウ色のままでした。しかし雪の中での視認性に問題があったことから派手な黄色と赤の塗装に変更されました。

 運用範囲は、1970年代には長岡を中心に上越線の新潟ー越後湯沢間、信越線の新潟ー直江津間、白新線羽越線の新津ー村上間の4両運用に使用されていました。新潟の70系は、上越国境を抜け高崎に至る列車の運用も担当していましたが、そちらは6両運用に限定されており、この運用にはクハ68は使われていませんでした。

クハ68044 (新ナカ) 1976.8 長岡

クハ68044 (新ナカ) 1976.8 長岡

クハ68044 (新ナカ) 1976.8 長岡

 2-4位側です。ジャンパ栓受けが受け台に乗っていますが、これは70系に合わせて名古屋地区に移った際に三線化された際に改造されたためと思われます。ジャンパケーブルは横須賀線に準拠して3線になっていることが分かります。

クハ68044 (新ナカ) 1976.8 長岡

 室内はモスグリーンに塗られていましたが、新潟地区の車輛の内装の大半はニス塗りで例外的な存在でした。これも遅れて、名古屋地区経由できたためです。

クハ68050 (新ナカ) 1976.8 長岡

 やはり本車の新潟地区での例外的存在を示すものとしてタイフォンカバーがあります。新潟地区のクハの大半は、正面上部の、円筒を斜めに切ったような独特の形のタイフォンカバーの中にタイフォンを収容していましたが、本車は屋根上のタイフォンの上をカバーで覆っただけで簡易化されていました。これも遅れて新潟に来たためです。なお上の写真は、本車ではなく、クハ68050 のタイフォンカバーです。

本車の車歴です。

1937.3.31 川崎車両製造 (クハ68012) → 1937.6.7 使用開始 大ミハ → 1937.10 大アカ → 1943.11.18 改造 吹田工 (クハ55126) →1948.12.2 座席整備 吹田工 → 1953.6.1 改番 (クハ68044) → 1956.7.31 更新修繕I 吹田工 → 1966.4.23 名カキ → 1968.8.23 名シン → 1969.9.10 新ナカ → 1976.10.7 廃車 (新ナカ)

 本車は京阪神緩行線用として、1937年に川崎車輌で製造されました。初のセミクロスシートの車のモハ51系列のクハとして誕生しますが、クハ68は関西向けのみで、全車偶数向きでした。最初は宮原区に配備されるものの、1937.10.10、電車区間の延長によって誕生した明石電車区の開設とともにそちらに移り、30年近く関西にいた時期の大半をここで過ごします。

 戦時中はご多分に漏れず座席撤去を受けクハ55126に改番されますが、1948年に座席が復旧され、さらに1951年には京阪神緩行線セミクロスシート復活方針を受け、セミクロスに戻ります。1953年にはクハ68に復旧しますが、番号はオリジナルではなく改番されます。

 長らく京阪神間で活躍しましたが、中央西線名古屋口電化用として1966年に名古屋地区に移ります。この時期に室内もモスグリーン化されるとともに、横須賀線から移ってきた70系に合わせるために、ジャンパ栓の3栓化も行われました。しかし名古屋暮らし3年で再度新潟地区に移ります。そこで最後の10年間を過ごしました。

 なお、本車が所属し、新潟地区の電車運用の中心基地として稼働していた長岡運転所は、JR化後、長岡車両センターとなりましたが、のち電車の方は上沼垂運転区 (→現在新潟車両センンター) に全面移管され、主として電気機関車車両基地として稼働していましたが、JR 東日本の機関車を減らしていく方針の結果、所属車両数は減少し、ついに今年3月のダイヤ改正で廃止となってしまったようです。残念です。