本車は以前ご紹介したクハ68044と同様に中央西線経由で長岡にやってきた車輛です。このため車歴も非常に似ていますが、クハ68044は運転台窓のHゴム化が施行されていなかったのに対し、本車はHゴム化と関西型通風器の設置が行われていました。おそらく、本車が中央西線に転籍した 1966 年頃から関西地区の国電のHゴム化と関西型通風器の設置が始まったものと思われますが、転籍した本車が改造されていたのは、あるいは当初転籍が予定されていなかったものが、急遽他車と振り替えられたためなのかもしれません。
本車も中央西線経由車らしく、室内がモスグリーンに塗り替えられていました。関東や名古屋地区の半鋼製国電の室内がモスグリーンに塗り替えられたのは、通勤電車に冷房車がなかった当時、おそらくラッシュ時の暑さを、せめて涼しめの色を塗ることで緩和しようという意図があってのことと思われますが、冬の寒さの厳しい新潟地区 (担当工場は新津車輌管理所) では、そのような塗り替えは行われず、他地区経由の車輛で既に塗り替えられていた車両のみ、それが維持されていました。
運転台助士席側の窓は、元々の2段窓から、R のついた1段窓に交換されていますが、これは新潟地区の冬の隙間風対策のためと思われます。なぜ Hゴム化されていないのに R がついていたのかはよく分かりません。あるいは70系や73系の戸袋窓のHゴム化で予備として作っておいた窓を再活用したのかもしれません。ただこのような改造車は飯田線、身延線などでも広く見られました。
スノープラウです。
床下です。ATS S型車上子が見えます。
MGです。
車輪はスポークでした。
遅れて新潟に来たため、防雪タイフォンの形状が先行他車と異なっています。これはクハ68044 と同形態です。
3栓式に改造されていたジャンパ栓。これは中央西線転出時に横須賀線から来た70系とともに使うために、横須賀線仕様に合わせていたものと思われます。幌も横須賀線同様両支持形となっていました。関西時代は片支持式だったはずです。
本車の車歴です。
1937.6.25 日本車輛東京支店製造 (クハ68015) → 1937.7.16 使用開始 大ミハ→ 1937.10 大アカ → 1944.8.7 改造 (座席撤去) 吹田工 (クハ55129) → 1948.11.28 座席整備 → 1953.6 改番 (クハ68050) → 1957.10.28 更新修繕I 吹田工 → 1966.5.11 名カキ → 1968.8.23 名シン →1969.9.10 新ナカ → 1976.10.7 廃車 (新ナカ)
本車は元々クハ68016として、51系制御車として製造されました。製造直後は宮原区に配置されましたが、明石区の開設とともにそちらに移り、以後関西時代は長らく動くことはありませんでした。戦時中座席撤去によりクハ55に編入されますが、京阪神緩行線セミクロスシート復活とともにクハ68に復帰します。ただ本来のクハ68はすべて偶数車だったため元番号に復帰せず別番号が与えられました。
1966年に、113系投入で捻出された横須賀線70系の中央西線転用に伴い、短編成化によって不足するクハを埋めるため本車も駆り出されることになって大垣区に移り、さらに、中央西線用の神領電車区新設でそちらに移ります。
しかし、1968年に高蔵寺ニュータウンの入居が開始となり、沿線人口が急増すると、中央西線の通勤ラッシュが深刻化します。この対処として首都圏等で捻出された4扉車の転用が始まると、それに伴い本車も新潟地区に移ります。新潟地区で7年間使われた後、115系に追われる形で廃車となりました。