省型旧形国電の残影を求めて

戦前型旧形国電および鉄道と変褪色フィルム写真を中心とした写真補正編集の話題を扱います。他のサイトでは得られない、筆者独自開発の写真補正ツールや補正技法についても情報提供しています。写真補正技法への質問はコメント欄へどうぞ

常磐線 増解結用に改造されたクハ55 のトップナンバー クハ55300 (蔵出し画像)

 今でも強く感じられることですが、首都圏と関西圏では人口規模が大きく異なります。そのため、40系の中間付随車であるサハ57は首都圏のみに新製投入されました。1950年前後に首都圏の混雑のひどい国電区間は基本的に20m 4扉車 (および一部 17m 3扉車) に統一され、20m 3扉車の多くは関西圏に転属させられますが、首都圏でもそこまで混雑のひどくなかった常磐線総武線横浜線、(一部横須賀線) にはロングシートの20m 3扉車が残されました。

 そのうち、サハ57 は関西では使いにくいと思われたのか、基本的に関東に残り、特に関東 20m 3扉車の牙城であった松戸電車区には、1956年の時点でサハ57が33輌も集結していました。ただ、戦後混乱期も過ぎると乗客数も徐々に落ち着きを取り戻し、常磐線では日中の輸送力が過剰な状態になったことから、朝と日中で増解結をすることで輸送力の調節を行うことになりました。これによりサハ57 をクハ55に改造したのがクハ55300代です。

 本車を含むグループは、1959年に最初に改造されたグループで、正面貫通路は客用引き戸貫通路扉をそのまま転用するという手抜き工事でしたが、おそらく最初は、朝には中間車として使用し、幌を使うだろうということで、経費節減も含めそうなったのではないでしょうか。本車はそのトップナンバー偶数車で、55300~319 (但し 318を除く) が本グループに相当します。奇数車 10輌、偶数車 9輌とほぼ同数作られたのも、55300代同士で分割併合することが考えられていたのではないかと推定されます。

 しかし、しかし、後の改造車は運転台をちゃんと作り直すようになります。引き戸のままだと、編成のトップで使用した時に隙間風の入り込みが開き戸よりすごいはずですし、冬場には乗務員は寒い思いをしたと思われますので、かなり苦情があって方針変更を迫られたのではないでしょうか。のちに前面扉を完全封鎖し、隙間風対策を施した車輛が大半だったのではないかと思われます。その結果、身延線に行った同僚は幌枠まで取り外され、運転台窓が H ゴム化されたこともあって、かなり締まりのない顔になってしまいました。

 クモハ12 も改造時に客用引き戸をそのまま運転台に使っていた車両もありましたが、鶴見線で活躍した 052, 053 など改造時に半室運転台だったものもありました。半室運転台なら、直接貫通路扉から隙間風が運転台に入り込むことがなかったのでさほど問題にならなかったと思います。また、引き戸転用のまま全室運転台として改造された車両の場合でも、増設側運転台はあくまで補助的で、たまに使う、あるいは入れ替え時に使う程度という位置づけであったならば、問題にならなかったのではないでしょうか。結局問題になるのは、客用引き戸転用の全室運転台を本格運用に使う場合だったのです。

 写真を撮ったのは最晩年の片町線時代です。

クハ55300 (大ヨト) 1976.3 鴫野

クハ55300 (大ヨト) 1976.3 鴫野

クハ55300 (大ヨト) 1976.3 鴫野

クハ55300 (大ヨト) 1976.3 鴫野

本車の車歴です。

1941.9.20 新潟鐵工所製造 (サハ57026) 東鉄配属 → (1947.3.1 現在 東モセ) → 1951.5.4 更新修繕I 大宮工 → (1954.9.1 現在 東ヒナ) → 1955.3 東マト → 1956.6.19 更新修繕II 大宮工 → 1959.11.6 改造 大船工 (クハ55300) → 1963.9.16 東ツヌ → 1964.6.17 東ナハ(→西ナハ) → 1969.3.20 大ヨト → 1976.4.20 廃車 (大ヨト)

 本車は戦時中の1941年に新潟鐵工所にてサハ57026として製造されました。配置区は手元の資料では不明ですが、1947年時点で東モセにいますので、おそらく京浜東北線用として新製配置された可能性が高いと思います。しかし、1950年前後 (おそらく更新修繕を契機に?) 横浜線に移り、さらに、首都圏最大の20m 3扉車の拠点、常磐線に移動します。クハ改造後はしばらく常磐線で使われましたが、その後総武線に移動、まもなく 17m 車淘汰のため南武線に移動します。5年ほど使われた後、73系に追われ関東を後にして、大阪は、片町線にやってきます。片町線では運転台窓両サイドが H ゴム化されましたが、なぜか関西型通風器は設置されないままでした。そこで7年間働いたのち、新性能化で廃車となりました。