省型旧形国電の残影を求めて

戦前型旧形国電および鉄道と変褪色フィルム写真を中心とした写真補正編集の話題を扱います。他のサイトでは得られない、筆者独自開発の写真補正ツールや補正技法についても情報提供しています。写真補正技法への質問はコメント欄へどうぞ

新潟地区で活躍後、松本に転じた クハ68200 (蔵出し画像)

 先日クハ68044の写真をアップしましたが、今回は、クハ68200 です。横須賀線用クハ47002 を三扉化改造した珍車です。写真が撮れたのは長岡運転所でのこの1枚だけでした。正面を見ていただくと、筒を斜めに切ったような「角」が正面に生えておりますが、これが雪よけのタイフォンカバーで、この中にタイフォンが収容されていました。比較的初期に新潟に配備された車両はこのようなタイフォンカバーを装着していました。また、新潟地区にいた クハ68 としては、出自がクハ47 ですので、トイレを設置していたという点で貴重な存在でした。

クハ68200 (新ナカ) 1976.8 長岡運転所

では、本車の車歴です。

1931 日本車輌製造 → 1931.2.24 使用開始 東チタ → (1947.3.1 現在 東チタ) → (1954.12.1 現在 静フシ)→ 1957.10.12 更新修繕II 豊川分工 → 1957.10 静トヨ → 1959.5 静ママ → 1963.11.12 東フナ → 1964.1.27 改造 大船工 (クハ68200) → 1964.1.30 新ナカ二 → 1967.11.15 新ナカ → 1976.10.26 長モト → 1978.1.17 廃車 (長モト)

 本車は横須賀線用クハとして1931年に日本車両で製造されました。国鉄初の20m電車のうちの 1輌でした。しかし、1950年の暮〜1951年ごろ、関西からクモハ43一党の上京と70系の新製配備を受け、モハ32とともに身延線都落ちします。もともとクハ47 は、付属編成用として、下り向き偶数車として製造されたはずですが、身延線はモハを偶数車、サハを奇数車に揃えていたため、方向転換を受けます。その後、1957年に飯田線豊橋区に移ります。ところが、1957年10月に更新修繕II を豊川分工場で受けた際、快速編成用として偶数車に戻されたようです*1。しかし、2年後に北部の伊那松島に移ります。おそらく、豊橋では、快速用としては、サハ代用としても使える貫通車が好まれたのに対し*2、北部の伊那松島では隙間風の入りにくい非貫通車が好まれたためではないかと推測します。

 ところがなぜか1963年に、古巣の横須賀線に呼び戻されます。これも推測ですが、当時横須賀線の2扉車を3扉化する工事が進行していたため、一時的な車輌不足を補うために呼び戻されたのではないでしょうか。そして、当時偶数車で揃っていたクモハ43, 53 の代用として使うため、唯一の偶数車であった本車に白羽の矢が立ったものと推定されます。

 そのついでに本車も3扉化されますが、これは新潟地区への70系の捻出が決まっており、それに当たり3扉クハ不足であったため、飯田線に戻さずに改造され、新潟送りに充当されたものと推測されます。おそらく3扉の姿で横須賀線を走ることはなかったでしょう。

 改造後すぐ当時電気機関車を担当していた長岡第二機関区の配属となり、横須賀線から長岡に渡った仲間の70系とともに活躍を始めます。1967年には長岡第一機関区などと統合し長岡運転所となり、そのまま、新潟地区で115系化まで活躍します。ところがそこで廃車かと思われたところ、思わぬ転出がありました。信越線の70系を担当していた松本運転所に移ることになります。

 これは、松本の70系は、基本的に偶数側がトイレ付き、クハ76、奇数側がトイレなしクハ68に統一されていたのですが、クハ76の数が足りず予備車として、仙石線から転出してきた偶数車のクハ68090を配置していました。ところがこの車はトイレがなかったため、68090が運用に入るとその編成はトイレなしになってしまうという問題がありました。このため新潟地区でご用済みになったトイレ付き偶数車で、しかもジャンパケーブル 3 線対応済みとなっている本車に最後の活躍の機会が与えられたというわけです。そして信越線の115系化とともに、ついに本車も引退となりました。47年に渡る活躍となりました。

 

*1:「我が心の飯田線」サイトの記述による。

*2:当時はまだサハ75等の転入がありませんでした。