省型旧形国電の残影を求めて

戦前型旧形国電および鉄道と変褪色フィルム写真を中心とした写真補正編集の話題を扱います。他のサイトでは得られない、筆者独自開発の写真補正ツールや補正技法についても情報提供しています。写真補正技法への質問はコメント欄へどうぞ

20m級4扉通勤電車の始祖・戦時4扉化試作改造車 片町線クハ79056

 本日ご紹介する旧形国電車輛は、かつて片町線で使われていたクハ79056です。と言っても、63系のクハ79とは異なります。本車は42系2扉車の4扉改造車の先鋒です。同時に4扉車の元祖・源流であり、のちのモハ63や101, 103, 201, 203, 205系、そして今日の209, 231, 233, 235, 321系等の4扉通勤車のすべては本車に始まったと言えます。元々は1941.3.26の塚本駅列車衝突事故で大破し休車になっていたサロハ46を改造したクロハ59022を、1943年になって試作的に4扉に改造したものです。そういう意味では歴史的な車両であり、保存の対象になっても良いだけの資格があった車ですが...

 他の元サロハ46のクロハ59は3扉化され、クハ55を経て、クハ68になっており、のち身延線信越線で使われました。本ブログで既に全車紹介しています (クハ68107, 109, 111)。改造後は一時クハ55106を名乗っていましたが、42系を組織的に4扉に改造する方針が出され、それに伴いクハ85026に改番、その後クハ79に編入されたものです。
 そもそも一番最初は4輌しか作られなかった42系サロハ46でそれがクロハ化され59に編入された車輌でしたので、かなりの複雑な改造遍歴を経てきました。
 4扉改造後は主に大ヨトで暮らしていましたが、1951年、一時的に大ミハに復帰しましたが、すぐ大ヨトに戻されました。おそらく京阪神緩行線セミクロス車復活の方針で再度大ヨトに還流したものと思われます。また森ノ宮区開設とともに森ノ宮区に移っていますが、やはり101系の大阪環状線投入と共に、淀川に戻り、以降片町線で生涯を過ごしました。
 片町線というのは、ちょっと地味ではありましたが、城東線 (今の環状線) とともに大阪国電の元祖でもあり、20m級国電 (電動車) の発祥の地であり、色々歴史的な由緒深い路線だったのですね。その片町線も、起点の片町駅はなくなり、学研都市線という通称までついてすっかり変貌してしまいましたが。

 なお、一部写真は以前のブログで紹介したものの再掲ですが、補正を変えています。

クハ79056 (大ヨト) 1976.3 淀川電車区

 

クハ79056 (大ヨト) 1976.3 淀川電車区

 写真ではちょっとわかりにくいですが、本車の貫通路扉は、手前の木製のものです。鋼製の貫通路扉は隣のモハ72のものです。

クハ79056 (大ヨト) 1976.3 淀川電車区

 運転台です。シンプルですね。

クハ79056 (大ヨト) 1976.3 淀川電車区

 中央の増設扉は1000mm とやや幅が狭くなっています。また事故を経たせいか、窓は作り直され再配置されています。後この改造方式は吹田工場でのクハ58、4扉改造のスタンダードになります。

クハ79056 (大ヨト) 1976.3 淀川電車区

クハ79056 (大ヨト) 1976.3 鴫野

クハ79056 (大ヨト) 1976.3 放出

クハ79056 (大ヨト) 1976.3 鴫野

 正面ですが平妻車にしては珍しく運転台左側が2段窓になっています。これは元々付随車だったものを後から改造したためです。1934年度後半から、おそらく夏季暑さ対策で2段窓が採用されるようになりますが、関西向けの平妻制御車、電動車で最初から2段窓だった車輛はありませんでした。なお、元サロハ46のクハ68の3輌も同様だったと思われますが、寒冷地に転属して2段窓は1段に改修されたものと思われます。

 また幌枠は原形ではなく、戦後幌の再整備を行った際、片支持形の幌に改められましたので、その際に交換されているはずです。また元サロハ46改造のクロハ59は全車奇数向きでしたので、本車も偶数番号でありながら奇数向きとなっています。なおクハ58は偶数向きでした。

クハ79056 (大ヨト) 1976.3 京橋

本車の履歴です。

1934.8 日本車輌製造(サロハ46100)→使用開始 1934.7.20(大ミハ)→1936.4.1 改番 (サロハ46014) → 1937.8改造 (吹田工 クロハ59022)→1937.11.6 大アカ→1938.10.20 大ミハ→1943.3.9改造[座席撤去含む]&改番(クハ55106)→1943.3.11 大ヨト→1943.8.4改番 (クハ85026)→1948.12.14 座席整備→1949.6.23改番 (クハ79056)→1951.9.17 大ミハ→1951.9.21 大ヨト→1954.10.10更新修繕I(吹田工)→1961.4.1 大モリ→1961.11.29 大ヨト→1976.10.7廃車(大ヨト)

 本車は京阪神電車化用として1934年に製造されました。当初は4輛の急行編成用中間車として登場したようですが、1937年に流電の投入と、編成の短縮、フリークェントサービス化のため奇数向きの制御車に改造されます。しかし、1941年の列車衝突事故で休車になっていたところ、4扉化試験車の対象として選ばれ、63系に先駆けて初の4扉車として生まれ変わります。その後は主に城東線、片町線で使われました。1961年には一時大阪環状線用として新たに発足した森ノ宮区に移りますが、101系の投入ですぐに淀川区に舞い戻り、そのまま片町線用として最後まで使われ、1976年に廃車になりました。

 5回も改番を経ていますが、これは旧形国電中、最高記録かもしれません。

データ出所: 『関西国電50年』