省型旧形国電の残影を求めて

戦前型旧形国電および鉄道と変褪色フィルム写真を中心とした写真補正編集の話題を扱います。他のサイトでは得られない、筆者独自開発の写真補正ツールや補正技法についても情報提供しています。写真補正技法への質問はコメント欄へどうぞ

北関東で活躍した EF12 1 (蔵出し画像)

 EF10 の出力強化型後継機として、1941年に登場した機関車です。本車はそのトップナンバーです。戦前の貨物機関車の到達点と言われますが、製造輌数はやや少なく、17輌にとどまりました。また戦時中の資材不足で、最後の車輛が出場したのは、1944年でした。

 撮影当時は高崎第二機関区に集中配備され、山手貨物線以北、北関東を中心に活躍していました。そのため個人的にはなかなか出会う機会のない機関車でした。

 この年の3月改正で高崎地区の急形国電が引退し、解体を待つ間留置されている姿を撮るために出かけた際に出会って撮影したものです。北関東配置のためスノープロウをつけたいかめしい姿をしています。

EF12 1 (高二) 1978.3 新前橋

EF12 1 (高二) 1978.3 新前橋

 なお、こちらのページの記述によると、EF12 1 の車歴は下記のようです。筆者の方に感謝いたします。

1941.03 日立製造 → 使用開始 1941.03 沼津 → 1946.3現在 国府津 → 1955.3現在 → 高崎二 → 1975.3現在 高崎二 → 1982.05.11 廃車 (高二)

 本形式は、戦災で廃車になることなく、17輌全機が後年まで活躍しました。戦後は、多くが高崎第二機関区に配置され、主に上越高崎線系等で使われましたが、一部新鶴見機関区に配置され、EF10などとともに東海道線などでも活躍しました。しかし、そのうちの大半が 1976年から77年にかけて廃車され、軸重の関係で吾妻線用に残された 5 輌のみ、1982年まで残りました。それも吾妻線の貨物廃止で、最後の 5 輌も廃車となったようです。今考えるともうちょっと長く活躍しても良かったように思われますが...

凍てつく冬の辰野駅に佇む飯田線クモハ54127

 下の写真は、凍てつく厳冬の辰野駅に進入するクモハ54127 です。茅野発平岡行き238Mとして6 輛編成でやってきました。以前掲げたことのある写真ですが再編集しました。

クモハ54127 (静トヨ) 1978.1 辰野

 この日クモハ54127は豊橋機関区53運用についていました。伊那松島機関区 71, 86 運用を従えてやってきました。この時の編成をメモから再現しますと、茅野発平岡行238Mで、[53運用]54127+68042 + [77]47011+54106 + [79]51027+68402という編成でした。ここ辰野で[79]を切り離し、伊那松島で[77]を分離し、[53]運用単独で平岡へ向かう予定でした。編成の後ろには辰野駅のテルハが見えます。かつては主要駅のどこにでもありましたが、これも荷物・郵便輸送がなくなって、消えてしまった駅の風景です。

 関西でHゴム化が進行する前に、関西から飯田線に転入してきたため、運転台や戸袋窓にHゴムはなく綺麗な姿です。またパンタグラフも原形の PS-11 でした。ただし、運転台助士席側窓は隙間風対策で2段から1段に改修されています。

クモハ54127 (静トヨ) 1978.1 辰野

 なお、2-4位側の写真が撮れていませんが、他の方の写真を見ると客用扉の形状は、1-3位側と同じだったようです。

本車の車歴です。

1943.7.17 汽車会社東京支店製造 (モハ60095) → 1943.9.20 使用開始 大ミハ → 1944.5.31 座席撤去 → 1948.9.3 大ヨト → 1948.12.19 座席整備 → 1950.11.14  大ミハ → 1953.6.1. 改番 (モハ54127) → 1954.3.21 大アカ → 1955.10.13 更新修繕I 吹田工 → 1965.7.13 静トヨ → 1978.12.20 廃車 (静トヨ)

 本車は元々関西向けモハ60として汽車会社東京支店で製造されました。因みにモハ60のうち関西向けとして製造されたのは、60026 - 60042, 60090 - 60111 で、このうち、60026 - 28 の3輌は1次形ノーシルノーヘッダー、他はシルヘッダー付きで、1943年に投入された 60093以降は、110 を除いて番号にかかわらず奇数向だったようです。なお、クハ55の末期に関西に投入された、55097以降も奇数車だったようで、なぜ奇数車ばかり関西に投入されたのかよく分かりません。あるいは、最初に城東・片町線に投入されたモハ40 (偶数側にパンタグラフ) の片運化計画などを配慮してのことだったのかもしれませんが。なお、関西向きのモハ60は、戦災や事故廃車、もしくは戦後早い時期に関東に転出した車輛を除くと大半が後にセミクロスシート化され、クモハ54に改造されました。本車もその1輌です。その理由は、モハ60の内一定数が宮原区に配置されたのということと、モハ43, 42 のかなりの数が4扉化され、城東・片町線に去って行ったのとの引き換えだったと思われます。

 ロングシートでしたが、製造後初配置は宮原区です。あるいはガソリンカー事故後急いで1941年に電化された西成線用として配置されたのかもしれません。当時西成線の担当は宮原区でした。しかし京阪神緩行線用に、列車種別表示用サボが設置されています。その後、戦後一時的に淀川区に転出しますが、基本的には京阪神緩行線用として使われます。そして京阪神緩行線セミクロスシート復活の方針で、セミクロスシートに改造され、1953年の形式称号改正でクモハ54に編入されます。しかし、1965年に17m車淘汰のため飯田線に転出、その後は継続して豊橋区で使用されました。しかし、1978年の豊橋区80系化で、伊那松島に転出することなく廃車となりました。

運転台が全室に改造されていた元クロハ59 長岡運転所の クハ68005 (蔵出し画像)

 本車は既にご紹介したクハ68021 と同じく元43系の一員クロハ59を改造したクハ68です。戦前に既に3扉化改造されています。本車はクハ68021よりやや遅れて新潟に来たため、運転台窓が両方とも H ゴム化されています。運行灯窓もおそらく Hゴム化されたものと思われますが、新潟式タイフォンカバーがついて埋め込まれています。

クハ68005 (新ナカ) 1976.8 長岡

 こちらは1-3位側。前面貫通路扉につらら切りがついています。後ろは建設中の上越新幹線駅です。

クハ68005 (新ナカ) 1976.8 長岡

 こちらの写真は2-4位側。

クハ68005 (新ナカ) 1976.8 長岡運転所

 長岡運転所内で清掃作業を受けるクハ68005です。幌は横須賀線タイプの両支持形に変更されています。幌枠はオリジナルタイプが残されていたようです。また、ジャンパ栓は3栓ありますが3栓目の栓受けはありません。なおジャンパケーブルは3線使われていました。それはクハ68044の写真で確認できます。

クハ68005 (新ナカ) 1976.8 長岡

 こちらは客室内。半室運転台でしたが、全室に改造されているのが分かります。このため、1-3位側の乗務員扉後ろの窓が 700mm から 550mm に縮小しています。クハ68021のほうは、半室のままだったためオリジナルのままでした。施工の時期は『国鉄電車ガイドブック 旧性能電車編 上』では、3扉化施行時に窓が縮小されたとありますので、そうだとすると後述のように、1941年時点ということになります。なお、窓が縮小されていたのは 1953年の改番時点以降で、68001, 68003 (のち403), 005 の3輌だったようですが、もし戦前に施行されていたとするともっと多くの車輛が全室運転台に改造されていた可能性があります。

 『関西国電50年』を見ると、この3輌はいずれも、1941年11月以前に3扉化改造が施行されており、1941年12月以降施行された車両はいずれも半室運転台のままだったようなので、そうだとすると元のクロハ59001 ~ 006 (のち、クハ68021 ~ 026 → クハ55135 ~ 140) が全室運転台化され、その後戦災と事故で、55135, 7, 8 (元 59001, 3, 4) が失われ、残った車輛がクハ68001 ~ 005 (奇数) として残ったということでしょう。1941年12月以降の改造車はおそらく資材節約のため全室運転台化改造が放棄されたものと思われます。

本車の車歴です。

1934.2.17 日本車輛製造 (クロハ59006)  大ミハ → 1941.4.15 改造 吹田工 (クハ68026)  → 1943.10.4 改造 吹田工 (クハ55140)  → 1948.12.21 座席整備 → 1950.9.29 大アカ → 1951.10.17 更新修繕I 吹田工 → 1953.6.1 改番 (クハ68005)  → 1959.2.10 更新修繕II 吹田工 → 1966.4.14 新ナカ二 → 1967.11.15 新ナカ → 1976.10.7 廃車 (新ナカ)

参照資料: 『関西国電50年』

 本車は、43系の2, 3等合造車 クロハ59 として製造されました。なおクロハ59は全車奇数、クハ58 は全車偶数車として製造されました。このためクロハ59を改造したクハ68も奇数車となっています。また、モハ43 は偶奇同数、モハ42 は、001~006までは偶奇同数、以降は奇数(上り)のみだったようです(『関西国電50年』による)。また当初、朝夕は4輌、日中は2輌で運転されたとあります。おそらく当初編成両端を電動車、中間にクハとクロハを挟む形で運用され、必要に応じて2輌で運用されたのではないかと思われます。

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推定される当時の運用

←上り(奇数) モハ43(42) + クハ58 + クロハ59 + モハ43 (42) 下り(偶数)→

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 また、5輌で運用される列車もあったようなので、おそらく上記編成の上り側にモハ42をつないでいたのではないかと思います。また、『関西国電50年』には 1937年に撮られたクロハ59 + モハ43 + 上り向きモハ42 の写真も載っています。

 しかし、戦時体制に入って2等車が廃止されると全車3扉車のクハ68 に改造されます。さらに座席撤去によりクハ55 に編入されます。戦後座席整備を受け、さらに京阪神緩行線クロスシート復活方針でクロスシート化され、1953年の形式番号改正により再びクハ68に戻りますが、その際クロハ59改造の奇数車が先の番号になることになり68001 〜 023 の奇数番号がこのグループに割り当てられました。配置から1967年まで33年間、途中配置区は変わりましたが、一貫して京阪神緩行線で使われました。しかし、1966年新潟地区の電車化区間拡大用に転用され、新潟式タイフォンカバーやつららきり、スノープローを装備し、その後 115系置き換えまで、10 年間豪雪地帯で活躍しました。

改造後一時 55440 の番号を振られていた 大糸線のクハ55439 (蔵出し画像)

 大糸線に クハ55 は数多く在籍していましたが、その多くはオリジナルのクハ55ではなくサハ57を改造したクハ55をさらに便所つきに改造したものでした。本車はその中の1輌、クハ55439 です。実はこの車輛、便所つきに改造された当初はクハ55440とされましたが、そのあと奇数向きなのに偶数番号はまずいと奇数番号に改番されたという経緯があります。実はクハ55440 と名付けられた車輛は合計で 3 輌あり、のちにこの番号をめぐってダブルブッキング問題が起こるのですが、本車はいわばその混乱の最初の引き金になった車輛と言えるかもしれません。本車は一時 55440 を名乗った初代です。

クハ55439 (長キマ) 1977.7 松本

 松本駅に停車するクハ55439です。サボ交換のために非ホーム側のドアが開けっぱなしになっています。今だったら、乗客が転落する、と大問題になりそうですが、当時は特に問題になることはありませんでした。運転台窓が H ゴムになっています。

クハ55439 (長キマ) 1976.10 信濃大町

 信濃大町駅で編成の中間に挟まる同車。

 

クハ55439 (長キマ) 1976.10 信濃大町

 床下に注目してみました。

クハ55439 (長キマ) 1975.5 松本

 こちらは松本ー麻績間の篠ノ井線区間運用に就くクハ55439です。正面の扉に桟が入っている特徴がはっきり分かります。なお、1-3位の写真が撮れていませんが、他の方が写した写真では、2-4位側の客用扉と同様だったようです。

クハ55439 (長キマ) 1975.5 松本

 同じ編成の連結面。右は沼津から転入してきたばかりのクモハ43810です。所属区名略号が静ヌマのままです。なお、クハ55439 とクモハ 43810 で幌の支持の方法が異なるのがお判りでしょうか?


 では本車の車歴です。

1933.12.13 製造 汽車会社東京支店 (サハ57010) 東鉄配属 → (1947.3.1 現在 東チタ) →  1947.6.25 連合軍専用車指定 → 1952.4.1 連合軍専用車指定解除 → (1954.11.1 現在 千ツヌ) →  1961.8.31 東シナ → 1961.9.11 改造 大船工 (クハ55331) → 1962.4.1 東モセ → 1962.11.19 東シナ → 1963.1.13 東ヒナ → 1965.9.30 東ナハ → 1966.5.4 長キマ → 1968.2.4 改造 大井工 (クハ55440) → 1963.3.1 改番 (クハ55439) → 1977.9.9 廃車 (長キマ)

参照資料:『旧型国電台帳』『終戦直後の東京の電車』『関東省電の進駐軍専用車』『鉄道ピクトリアル』『鉄道ファン』バックナンバー

 本車は東鉄に最初に配属された40系の一員の付随車 サハ57010 として、汽車会社東京支店で製造されました。最初に配属された車両基地は、手元の資料では確認できません。ただ、1947年現在でサハ57の配置が多いのは京浜線や山手線ですので、東カマか東シナの可能性が高いものと思われます。その後、1947年の時点で田町区にいるので横須賀線用に配備されていました。ロングシートだったため連合軍専用車として活用されたようです。当時米兵にはクロスシートは足が延ばせないと不評だったためです。

 その後、1952年の連合軍専用車指定解除を受けて、当時20m 3扉車が集められていた拠点の一つ、総武線に移動します。『関東省電の進駐軍専用車』によりますと、名目上の指定解除は、4.1 だったようですが、実際運用から外れた (接収解除) のは、4.28以降しばらく経ってから順次行われたようです。それでもおそらくその年の内に移動したのではないでしょうか。その後、総武線から山手線に移動してすぐにクハに改造されます。他の車輛の車歴も見てみると、本車を含むクハ57改造のクハ55の第2次タイプはいずれも改造時に品川区に集められています。山手線でも常磐線のように分割併合運転の必要があって改造されたとは、山手線の混雑状況を考えると、ちょっと考えられません。しかも1950年前後におそらく混雑のため、20m 3扉車が追放され、20m 4扉車と、17m 3扉車に統一されているのですが...

 一つ考えられる可能性としては、長編成化 (おそらく 8 輌編成統一) が計画されたものの、車輛基地や電留線の収容長から、単一で長編成は組めず2編成を1本に組成して運行する必要から、足りなくなるクハを持て余し気味のサハ57を改造することで充当する、というあたりでしょうか。因みに、手元の資料によると、1950年代末、これは池袋電車区の場合ですが、当時山手線用は基本編成が5輌、付属編成が3輌で、一部の列車のみ8輌で運転されていたようです。その際、3扉のためになるべく客の少ない編成の端につなぐ必要があることから、前面貫通扉は客用扉の転用を止めたのではないでしょうか。品川電車区は、1967年に現在の東京車輛総合センターにある2階建て庫が完成するまでは品川駅構内にあって手狭で苦しんでいたはずですので。ただこのあたり手元にそれを裏付ける文献がありません。多分古い鉄道雑誌を丹念に読めば記事は出てきそうですが。もしご存じの方はご教示いただけると幸いです。

 その後、山手線と京浜東北線の間を行ったり来たりしたあと、横浜線、さらには南武線に転じます。そして、1966年に17m車淘汰のため大糸線に転じ、その2年後に便所つきに改造されました。『旧形国電台帳』によると施行工場は大井工とされているのですが、わざわざ大井工まで改造のために送ったのかどうか、ひょっと記述ミスで長野工場で施行されたのではとも思いますが、分かりません。ただ当初奇数車にもかかわらず、関係なく 55440 と改番され、翌年奇数番号である 55439 に再改番されたようです。その後長らく大糸線を中心に活躍しましたが、1977年に中央西線篠ノ井線の上松ー松本ー聖高原区間運用が北松本支所の旧形から松本本所の 80 系に移管された際に、余剰廃車となってしまいました。

助士席側運転台窓が2段のまま残されていた阪和線 クモハ60004 (蔵出し画像)

 今回は阪和線の クモハ60004 です。阪和線のクモハ60 の多くは、関東のクモハ60の一大拠点であった常磐線の新性能化に伴って、旧阪和形の社形国電クモハ20の淘汰のためにやってきた車輛です。旧阪和形は、天王寺ー和歌山間を高速で結ぶため、当時としては非常に出力の高い電動機を備えており、それに伍するため共に使用される国鉄形も高出力電動機を備えた車輛が求められていました。戦前でも天王寺ー和歌山間の所要時間は約1時間と現在と変わらない高速、いや最近の紀州路快速は 70 分前後のようですので、現在よりも高速を誇っていました。

 なお阪和線のクモハ60は、当時快速運用は基本的には70系が就いていて、快速運用に就くことはほとんどなかったものと思われますが、区間快速運用でも天王寺ー鳳間で、時速 95km/h 前後のかなり高速な走行が求められていました。そのためか、おそらく冬場の隙間風対策で運転台の両方の窓が H ゴム化されている率が高かったのですが、本車は珍しく助手席側の窓が2段窓のまま残されていました。Hゴム化の比率も低く、趣味的には好ましいものでしたが。

 また、関西に移ったためパンタグラフもオリジナルの PS-11 が維持されていました。

クモハ60004 (天オト) 1976.3 鳳

 以下は床下です。偶数車で 2-4位側が電気になっていますが、これは戦後の更新修繕で空気電機の入れ替えが行われた結果と思われます。抵抗器はオリジナルのままです。

クモハ60004 (天オト) 1976.3 鳳

本車の車歴です。

1939.11 日本車輛製造 → 1940.3.30 使用開始 東鉄配属 → (1947.3.1 現在 東カマ) → 1953.11.30 更新修繕I 日本車輛東京支店 → (1954.9.1 および 1956.1.1 現在 東ヒナ) → (1957.11.1 現在 東イケ) → 1958.8 東マト → 1967.7.9 天オト → 1978.3.23 廃車 (天オト)

データ出典『関西国電50年』『旧形国電台帳』『鉄道ファン』『鉄道ピクトリアル』バックナンバー

 本車は 1939 年に日本車輛で製造されました。ノーシルノーヘッダーの準戦時型モハ60 の第1次車として誕生し、翌年東鉄に配属されました。1947年現在で蒲田区にいますので、おそらく 60001 と同様、当初から京浜線用として蒲田区に配置されていた可能性が高いものと思われます。モハ60のノーシルノーヘッダーの1次形のうち、001 ~ 025 が東鉄に配属されたようですが、おそらく全車京浜線用として蒲田区に配置されたものと推定されます。

 しかし 1950 年前後の京浜線の4扉車統一によって、横浜線に転出したと推定され、しばらく横浜線で使われますが、1957年には池袋区にいます。

 山手線は、1950年前後に20m 3扉車が排除され、4扉車もしくは17m 3扉車に一旦統一されますが、1956年頃からなぜか池袋区に20m 3扉車の配置が復活します。赤羽線用ではないかと推測されますが、手元にそれを裏付ける資料がありません。しかし、まもなく1958年に関東のクモハ60の牙城となった松戸区に移動します。その後は常磐線で使われましたが、先述のように常磐線の新性能化に伴い、松戸区に集まっていた多くのクモハ60が阪和線に移動 (一部は御殿場線電化のため静鉄に転出)、本車もそれに伴って関西に移動してきました。その後10年間阪和線で活躍しましたが、1977.3改正で阪和線の旧形国電の運用は終了、一時、紀勢線電化で転用される計画もありましたが、電化工事の遅れで霧散、その後 クモハ60001 と共に牽引車代用としてしばらく残されましたが、結局1978年に廃車となっています。

 

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[追記]

 気づいたら、この記事が blog 開始後ちょうど投稿 1000 記事目でした。

 

新前橋区の救援車 クモエ21005 (蔵出し画像)

 今回は、新前橋電車区にいた クモエ21005 です。

クモエ21005 (高シマ) 1977.5 新前橋電車区

 こちら逆光になってしまい、写真としては失敗なので、今まで公開を躊躇してきましたが、記録としてお見せします。当時逆光の場合露出を開け気味に撮るということも知らずに撮っていたので...

 パンタグラフを上げていますが、構内で牽引車代用として使われていたことが分かります。

クモエ21005 (高シマ) 1977.5 新前橋電車区

 こちらは反対側のオリジナルのままの運転台ですが、なんと ATS は B型しか設置していません。ということは単独で本線走行は無理だったということです。あるいは緊急時は ATS が合わなくても臨時に本線走行を可能にするような運用がなされていたのか、あるいは DL などがけん引する前提だったのでしょうか。沼津区の クエ28002 はほとんど客車のような運用が前提とされていたようでしたが...

クモエ21005 (高シマ) 1977.5 新前橋電車区

クモエ21005 (高シマ) 1977.5 新前橋電車区

 職員の方にご案内いただいて救援車の内部を撮らせていただきました。せっかくの機会をいただいて撮影したものですので記録として公開したいと思います。車輛の牽引に使うであろうケーブル類や発電機と思しきものが積んであるのが分かります。上は貫通運転台側、下は非貫通運転台側を望みます。室内灯は蛍光灯になっていました。

クモエ21005 (高シマ) 1977.5 新前橋電車区

本車の車歴です。

1927 川崎造船所 製造 (デハ73318) 東鉄配置 → 1928.10.1 改番 (モハ30120) → (1947.3.1 現在 東イケ) →1953.6.1 改番 (モハ11046) → (1956.1.1 現在 東イケ) → 1956.2.20 改造 日本車輛東京支店 (クモハ11126) → (1956.12.1 現在 東イケ) → 1958.6 東ヤコ→ 1960.4.25 東ナハ → 1967.7.4 東テシ → 1968.3.25 幡生工場 改造 高シマ → 1982.7.1 廃車 (高シマ)

 当車は、1927年川崎造船所にてデハ73318として製造され東鉄に配属されました。省電最初の半鋼製電動車としてモニター屋根を持つ姿で製造されました。翌年すぐモハ30120 に改番となります。1947年には池袋区にいたことが確認されますので山手線、赤羽線で使われたものと思われます。ひょっとすると最初から山手線用として使われたのかもしれません。1953年には形式称号改正で、モハ11046となります。そして、1956.2にモニタ屋根をシングルルーフの切妻に変える改造が行われ、モハ11126と 100番台を名乗るようになります。この間ずっと東イケを離れることはなかったようです。

 しかし、1958年に長年住み慣れた山手線を離れ南武線に転属します。さらに1967年には鶴見線に移りますが、転属1年もたたないうちに遠く幡生工場で事業用車に改造されその後は新前橋区に留置されます。写真でご覧のように構内入換用を兼ねていたようです。しかし製造後55年でついに廃車となりました。

沼津機関区で台検中の EF10 31 (蔵出し画像)

 先日 EF10 8 の写真をアップしましたが、今回は沼津機関区で台検中だった EF10 31 です。

EF10 31(豊) 1977.5 沼津機関区

EF10 31(豊) 1977.5 沼津機関区

 台車が取り外されて車体が浮いています。

EF10 31(豊) 1977.5 沼津機関区

 日立製作所の製造銘板が見られます。

EF10 31(豊) 1977.5 沼津機関区

 こちらは台枠。車輪が取り外されています。

EF10 31(豊) 1977.5 沼津機関区

 こちらは取り外された電動機。

EF10 31(豊) 1977.5 沼津機関区

 台枠をやや上から見ます。

 

 ところで撮影しているときは、何も考えていませんでしたが、当時 EF 10 31 は豊橋機関区にいたはずです。本機は、豊橋機関区に最後まで残った EF10 であり、最後は電動機が焼損して休車状態になったまま廃車になったはずです。ということは本来台検は豊橋機関区で受けるはずでは...? ちなみに当時沼津機関区に所属していた電気機関車は EF60 のみでした。あるいは、当時の豊橋機関区は旧形国電のお守りで手一杯で沼津機関区に電機の重要な検査は委託していたのでしょうか? もしこの事情をご存知の方がいらっしゃればご教示いただけるとありがたいです。

 

本車の車歴です。

    1940.04.24 日立製作所製造 → 1940.04.29 使用開始 国府津 → (1945.3 門司) → (1955.3 八王子) → (1971.3 八王子) → (1973.3 豊橋) → 83.03.11 廃車 豊橋

当初は東海道線用だったようですが、1942年の関門トンネル開通で、それ用に転用され1942.6.1 の試運転列車は本機が牽引したようです。ただし、外板のステレンス化は行われなかったようです。関門トンネルへの EF30 の導入は1961年だったようですが、本機は戦後早々に八王子に移ったようです。

車歴は以下のサイトを参照しました。記して感謝いたします。

失われた鉄道情景を求めて (iwana氏作成)
http://silkroad2000.web.fc2.com/rireki.htm データ参照元は鉄道ピクトリアル 178号

デンチュウの鉄道ページ
http://tnk-ko.a.la9.jp/gallery/ef10_index.html