省型旧形国電の残影を求めて

戦前型旧形国電および鉄道と変褪色フィルム写真を中心とした写真補正編集の話題を扱います。他のサイトでは得られない、筆者独自開発の写真補正ツールや補正技法についても情報提供しています。写真補正技法への質問はコメント欄へどうぞ

代役でも八面六臂で活躍した飯田線 クモハ61004 (蔵出し画像)

 さて、本日は本ブログ開設3周年です。今回は飯田線のクモハ61004 (静ママ) をご紹介します。伊那松島機関区所属の電車は、おそらく飯田線北部で冬の寒さが厳しかったためか、運転台側に幌が付いた車輛はあまり好まれず、貫通路があっても幌を外し、前の貫通路扉を締め切りにして、隙間風が入らないようにしていた車両が多かったのですが、その中の唯一の例外がクモハ61の3輌です。

 クモハ61は、元々は40系の祖にして、関西国電始源の城東線、片町線用のモハ40の内、戦後も両運転台車として残った車両を阪和線に転出させた際に、強力なモーターを持った阪和モタ、モヨに性能的に追いつかせるため出力強化した形式です。

 全部で5輌の内、後半の 61003~5 が飯田線に転属しました。そのうち 61005 は奇妙な方向転換を行ったことは既に以前の記事で紹介いたしました。本車は、床下機器の大掛かりな配置換えを避けるためか、単純に方向転換のみが行われパンタグラフを奇数に向けて飯田線で使用されました。

 下り向きにも上り向きにも使えることから、幌が活用されました。ただ、下記の写真のように結構偶数 (下り) 向きに使われることが多かったように思われます。

クモハ61004 (静ママ) 1978.1 伊那松島機関区

クモハ61004 (静ママ) 1978.1 伊那松島機関区

クモハ61004 (静ママ) 1981.8 伊那松島機関区

 サボ受はクモハ51200と同様幕板にありましたが、それが災いしてか、私の写真ではサボが入っているものはありませんでした。大糸線に転出していた経歴があるわけでもなく、61005は窓下に設置されていたので、なぜ幕板に設置されていたのか謎です。

クモハ61004 (静ママ) 1976.5 豊橋駅

クモハ61004 (静ママ) 1977.7 伊那松島機関区

クモハ61004 (静ママ) 1977.12 浦川駅

 ところで、以下の3枚の写真、営業用に上り向きで使われている本車ですが、ちょっと変なことに気づきませんか?

クモハ61004 (静ママ) 1981.4 伊那松島駅

クモハ61004 (静ママ) 1981.4 伊那松島駅

クモハ61004 (静ママ) 1981.4 豊橋駅

 営業用に使われているにもかかわらずパンタグラフを降ろしています。故障しているのでしょうか? 正解は以下の写真をご覧ください。

クモハ61004 (静ママ) 1981.4 豊橋駅

 運転台のすぐ後ろに荷物という幕がかかって、荷物が積まれています。しかも、その後ろに変なものがかかっていますが... これは郵便の折り畳み版仕分け棚です。つまりクハユニ56 の代用として使われているのです。そのため、営業についているにもかかわらずパンタグラフを降ろして付随車代用として使われていたという訳です。17m車の時代はともかく、20m車になってからはロングシートの車輛は好まれなかった本線ですが、これでロングシートのクモハ61が重宝された理由が明らかになりました。つまりクハユニが検査や故障の際に代役として使うのにロングシートの方が便利なので好まれたという訳でした。なお、1978年秋の豊橋区への80形配置以前は、定員の少ないクハニ67900台とコンビを組むことが多かったようです。

 以下は半室運転台部分の客席との仕切り棒です。

クモハ61004 (静ママ) 1976.5 豊橋駅

では本車の車歴です。

1932.10.19 日本車輛製造 (モハ40004) → 1932.11.3 使用開始 大ヨト → 1943.12.24 座席撤去 → 1946.4.17 連合軍専用車指定 → 1948.3.20 連合軍専用車指定解除 → 1948.12.7 座席整備 → 1950.12.21 更新修繕I 吹田工 → 1951.11.11 天オト → 1953.6.1 改番 (モハ61004) → 1955.12.20 東ミツ → (1956) 東マト → 1956.12 東ヒナ → 1957.3.29 天オト → 1957.7.3 静フシ → 1957.9.5 更新修繕II 豊川分工 → 1957.9 静ママ → 1983.8.31 廃車 (静ママ)

※『関西国電50年』『鉄道ピクトリアル』車両の動きより

 すでに述べたように、関西国電の祖として1932年に日本車輛で製造され、城東線・片町線用として使われました。パンタグラフのある運転台が偶数向きでした。戦後、連合軍専用車指定を受けた後、座席整備を行い、1951年には阪和線に移ります。移って間もなく阪和社形電車に対抗できる性能を得るため出力強化工事を受けたはずですが、改番は1953年になりました。

 しかし、1955年には関東に出されてしまいます。とは言え、三鷹、松戸、東神奈川と同僚の61005とともにたらいまわしにされた挙句、鳳区に返されてしまいます。61005はかなり状態が悪かったという情報もあるので(「わが心の飯田線」サイトの情報)、おそらく本車も余り状態が良くなく、厄介者払いで関東に出されたのかもしれません。しかし、関東でも歓迎されなかったようです。鳳に戻ったものの、すぐ富士区に出されます。当時身延線では電動車の低屋根化工事が進捗していたので、おそらく、そのピンチヒッター名目で追い払われたのでしょう。結局豊川分工場で更新修繕II を受け飯田線に転出、そこで状態が安定したのか、飯田線が安住の地となりました。

 豊川分工場では当時、電動車の海側の電気機器を山側に移設する工事が更新修繕II とともに盛んに行われていましたが、本車はその手間をなるべく省くためか、方向転換で対応することとなりました。これによってパンタグラフの位置が、上り側 (奇数向き) に変わります。これが当時静鉄では電動車が偶数向きに揃っていたのを破る契機になったと思われます。

 なお、伊那松島では1957.6.8に社形のクハニ7200形4輌が廃車になっていましたので*1、ひょっとするとクハニ代用として使うことを想定して奇数向きの方向転換が容認された可能性もあります。

 伊那松島では上に述べたように重宝に使われ、旧形国電最後の日まで活躍しました。

 

 なお、以下の「わが心の飯田線」サイトに本車の三鷹時代 (1956.3.31撮影) の写真が掲載されています。この時はまだパンタ側が偶数向きだったことが分かります。またパンタグラフもオリジナルの PS-11 のままです。

kokuden.net

 

*1:「わが心の飯田線」サイトの記述による。

http://kokuden.net/mc53/sub.htm/sub1.html