省型旧形国電の残影を求めて

戦前型旧形国電および鉄道と変褪色フィルム写真を中心とした写真補正編集の話題を扱います。他のサイトでは得られない、筆者独自開発の写真補正ツールや補正技法についても情報提供しています。写真補正技法への質問はコメント欄へどうぞ

謎の方向転換が行われていた 飯田線 クモハ61005 (蔵出し画像)

 今回は飯田線の車輛を紹介します。こちらは、ロングシート車ながらも、高出力の両運転台車として伊那松島区で重宝に使われていたクモハ61の1両です。当時飯田線ではクモハ61003~005の3両のクモハ61が在籍していました。

 なお今回お見せする写真のうち、モノクロ写真は先日公開した、現像失敗写真の修復法で修復した写真です。この修復技法を考案してようやく日の目を見た写真たちです。

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クモハ61005 (静ママ) 1981.8 伊那松島機関区

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クモハ61005 (静ママ) 1981.8 伊那松島機関区

 出力強化で抵抗器が交換されています。

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クモハ61005 (静ママ) 1981.8 伊那松島機関区

 

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クモハ61005 (静ママ) 1981.8 伊那松島機関区

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クモハ61005 (静ママ) 1981.8 伊那松島機関区

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クモハ61005 (静ママ) 1981.8 伊那松島機関区

クモハ61005 (静ママ) 1981.4 豊橋駅

クモハ61005 (静ママ) 1981.4 豊橋駅


では、本車の車歴です。

1932.11.17 汽車會社東京支店製造 (モハ40013)→ 1932.7.11.29 使用開始 大ヨト → 1943.9.13 座席撤去 → 1948.12.14 座席整備 → 1950.9.16 更新修繕I 吹田工 → 1951.11.11 天オト → 1953.6.1 改番 (61005) → 1955.12.20 東ミツ → (1956.?) 東マト → 1956.12 東ヒナ → 1957.3.29 天オト → 1957.9.22 静ママ → 1957.11.19 更新修繕II 豊川分工 → 1984.3.19 廃車 (静ママ)

 本車は、大阪・城東、片町線用に国鉄初の20m級電動車モハ40013として昭和7 (1932) 年に製造されました。但し製造されたのは東京です。モハ41が奇数向きだったのに対し、モハ40は1-2位側(つまり先頭)が偶数向きだったようです。但し製造されたのが東京だったためか(私の推測ですが、おそらく電装工事は大井工場が担当)、床下機器配置は東鉄と同じ、つまり偶数向きでも2-4位側が電気側で、奇数車と同じだったということです。多分電車の電装工事で実績のある東京で工事を行ったということでしょう。43系からは大阪向けの電動車は、潮風の影響を避けるために、山側が電気、海側が空気に統一されますが(つまり偶数車は2-4位側が空気)、大阪初の省電(国電)であり、城東・片町線は海岸線沿いを走ることがなかったので、特にそのようなことは考慮されず、関東と同じ機器配置だったようです。なお、関西向けの電車のメーカーも43系以降は関西、もしくは名古屋の日本車輛が中心となり、電装工事も吹田工場で行われたものと思われます。

 本車を含む残ったモハ40、5両全車は、戦後阪和線へ転出します(残りは戦災や事故で廃車になるか、片運化でモハ51に編入)。本車もそれを機に電動機をMT-15からMT-30に増強し、1953年にモハ61005に改番されました。これは当時阪和線で活躍していた社型の阪和型電車が天王寺-東和歌山間を45分間、評定時速80km/h以上で疾走できる、定格出力約150kwの、東洋電機製TDK-529-Aという強力なモーターを備えていたのに伍するためと思われます。因みにモハ52も阪和線転出時に出力増強を行っています。

 しかし、本車はしばらくして61004と共に生まれ故郷である東京は三鷹区に転出します。しかし状態が悪かったのか関東でたらいまわしにされた挙句、1957年には阪和線に戻されてしまいます。しかしすぐ阪和線からも追い出され、1957年には飯田線に追いやられます。同年、豊川分工場で更新修繕を受け、ようやく状態が落ち着いたのか飯田線が安住の地となります。飯田線では少数派のロングシートでしたが、両運転台だったことが重宝され、長く伊那松島機関区で、119系による新性能化まで活躍しました。大阪地区で22年間、そして飯田線ではもっとも長い26年間活躍しました。

 1978年豊橋機関区の80系導入までは、ロングシートで定員が多かったこともあって、定員の少ないクハニ67とコンビを組むことが多く、1978年以降は、豊橋区から移ってきたクハユニ56とコンビを組むことが多かったように思いますが、そのほかにもいろいろピンチヒッターとして重宝されていました。

 なお、本車は61004と共に、奇数向きになっていましたが、この両車はどうやら1957年の更新修繕の際に方向転換が行われたようです*1。しかも本車は写真を見ていただくとお分かりになりますが、中央客用扉の戸袋が、1-2位側にあります。つまり元々後の3-4位側の運転台が当初の1-2位側の運転台で、それを引き通し線の位置は変えないまま、パンタグラフの位置の移設 (およびPS-13化) と、床下機器の方向転換が行われたと推定されます。当時静鉄、東鉄では、東海道線を走る80系に合わせる形で、更新修繕の際、偶数車の床下機器の空気、電気側の位置の入れ替えが一斉に行われていました。電気機器を潮風の影響の少ない山側に移すという目的のためです。豊川分工場では、静鉄のみならず東鉄の旧形国電の更新修繕も担当し、偶数車の床下機器の方向転換は頻繁に行われていたので、元々偶数車(下り向き)だった本車の床下機器の方向転換工事自体は不思議ではありません。しかしなぜその上、パンタグラフを移設して1-2位と3-4位を転換させ奇数車にしなければならなかったのかが不思議です(両運転台車ですので...)。

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61005 更新修繕の前後
(当初 偶数[下り]向き→更新後 奇数[上り]向き)

 一方、61004の方は、1-2位運転台の位置を変更しないまま引き通し線の位置の変更による方向転換だけが行われ、床下機器の配置転換は行われていないようです。

 あくまで憶測ですが、次のような事情であったのではないでしょうか。61は1-2位が偶数向きなので、偶数向きのまま山側に電気機器を寄せようとすると、床下機器を一斉に入れ替えなければなりません。しかし、引き通し線の位置を入れ替えて奇数向きに方向転換してしまえば、床下機器の全面入れ替えまでやらなくても電気側が山側に来ますので合理的です。それで61004は奇数向きにしたのではないでしょうか。それに当時静鉄の電動車は偶数向きに揃える方針だったとはいえ、要は運転台が下り側にあればよいので、両運転台車をわざわざ偶数向きにする必然性はないはずです。そこで偶数向きに揃えるという方針を捨てたのではないでしょうか。

 一方、61005は、偶数向きだからととりあえず床下機器配置転換工事に取り掛かったところ、61004は、従来の静鉄の方針であった電動車の偶数向きにこだわらず、奇数向きへの転換で済ませることになり、慌てて61005に関しても、61004に揃えて奇数に向けるためにパンタを移設した... というあたりではないでしょうか。後述のように61003は偶数向きのままだったので、61005も偶数向きのままでも良いと思いますが(しかも静鉄の当初方針は電動車を偶数向きに揃えるということでしたのでなおさら)、何か手違いで機器配置転換工事に着手してしまったせいか、あるいは偶数車の4が奇数向きで奇数車の5が偶数向きではまずいと思ったのか...? このあたりは謎です。

 なお、飯田線は1956年までは国鉄形電動車の大半はモハ14、一部11で身延線と同様偶数向きに揃えていましたが、1957年に阪和線から61と52および、伊東線から42が移ってきてそれが崩れます。結果的に静鉄のモハ14は偶数向きに揃えたことで、1954年から始まった更新修繕IIで全車の床下機器配置を転換しなければならないという不合理に直面しました*2。61の転入&更新修繕が、電動車を偶数側に揃えてさらに床下機器の一斉配置転換までやるという不合理の見直しの契機になったのかもしれません。事実、クモハ52もこの年の4月に004, 005が最初に転入してきますが、奇数向きだった005は静鉄方針に従い偶数向きに方向転換しています。しかし、秋(10月)以降に入ってきた他の仲間は方向転換を行うのを止めています。

 なお、後年豊橋区の4両運用はMcTTMcというような貫通運用になっていますが、『わが心の飯田線』サイトの記述によりますと、この当時は快速運用でもMcTc+McTcと非貫通で、快速運用にも使われる4両運用を貫通させるという方針は、1958年に立ったようです。

 とはいえ、身延線に関しては、基本クモハ14+クハ47で揃っていましたので、その後クモハ14を置き換えたクモハ51および60も含め電動車を偶数に揃えるという方針は1981年まで維持されました。ただし1960年台半ば以降(おそらく1963年の豊川分工場廃止 or 富士区の東海道ローカル担当廃止以降)は、奇数車を方向転換しても床下機器の配置転換までは行われていません。

 さらに61003はオリジナルのまま偶数向き、かつ電気機器は海側でしたが、こちらは更新修繕IIを吹田工場で済ませてから飯田線に転出してきたため、床下機器の配置転換は行われないままでした。大鉄では、43系以降、新製時には山側に電気機器を揃える方針が打ち出されていましたが、更新修繕の際の床下機器の配置転換までは行われていませんでしたので、オリジナルの配置(海側が電気)が維持されていました。また伊東線から静鉄に転出してきた奇数向き両運転台車のクモハ42は伊東線時代に更新修繕IIを豊川分工場で済ませ、かつ両運転台だったためか、これもわざわざ偶数向きに揃えることまで行われませんでした*3。結局飯田線車両は、工場入出場時を除き、海沿いを走ることもありませんでしたので、長距離海沿いを走る浜松-沼津間東海道ローカル運用も担当していた富士区への移動の可能性の少ない車両の床下機器移設の必然性は低かったいえます。

*1:以下のページに三鷹区時代の61004の写真が掲載されていますが、偶数向きです。

kokuden.net

 またこちらの記述を見ると61005は更新修繕後パンタグラフの位置を移設したとあります。

kokuden.net

*2:奇数向きに揃えていたら半数だけ配置転換するだけで済んだのですが。つまり静鉄の電動車を偶数向きに揃えるという方針は、潮風の影響を考慮するものではなかったということです。逆になぜ静鉄では、モハ32を東鉄から迎えた時に電動車を偶数[下り]向きに揃えるという方針を立てたのかが謎ですが

*3:なお、鉄道資料刊行会の『関西国電50年』によりますと、モハ42で偶数向きで製造されたのは、002,4,6のみであとは数字にかかわらずすべて奇数向きで製造されたようです。因みに晩年の42006は奇数向きになっていましたので、どこかで方向転換が行われたことになります。可能性としては海沿いを走っていた伊東線時代に電気機器を山側に向けるために方向転換したのではないかと思います。