省型旧形国電の残影を求めて

戦前型旧形国電および鉄道と変褪色フィルム写真を中心とした写真補正編集の話題を扱います。他のサイトでは得られない、筆者独自開発の写真補正ツールや補正技法についても情報提供しています。写真補正技法への質問はコメント欄へどうぞ

青梅線の最古参 クモハ40033 (一部蔵出し画像)

 自分がなぜ旧形国電ファンになったのかを思い返してみると、片野正巳さんが書かれた『陸蒸気からひかりまで』という1:150スケールで描かれた国鉄車輛イラスト集が思い当たります。当時の男の子たちのご多分に漏れず蒸気機関車が好きでした。とはいえ当時お子ちゃまで親に連れて行ってもらえないと遠出はできないうえ、蒸気機関車は関東付近ではほぼ一掃され、蒸気機関車が現役で動く姿見られたのは、かろうじて八高線D51 のさよなら運転と、鉄道100年の記念列車が高島貨物線で運転に間に合ったぐらいでした。小学校の同級生の中には、小学生なのに一人で遠出し、カメラを持って北海道まで写真を撮りに行く猛者もいましたが...

 しかし、蒸気機関車以外にも心惹かれたのがこのイラスト集に描かれた戦前の旧形国電の車輛群でした。やはり親に連れられて青梅鉄道公園に行くために青梅駅に来ると、片野さんのイラストで見慣れた電車がそのまままだ現役でいるのに気づきました。これが本車とその後ろにいるクモハ40039です。まだ戦前生まれの電車が現役でいる! と非常に感激しました。これが自分にとっての旧形国電ファンになった原点です。

クモハ40033 (西トタ) 1973.5 青梅

 後ろにオレンジの101系が見えますが、これは中央線からの直通車です。

 以下はその3年後、青梅線が新性能化されると聞いて、慌ててカメラを持って駈けつけて撮った写真です。京浜東北線から転属してきた103系がすでにスカイブルーの塗装のまま入線していました。上の写真では残っていた旧青梅電車区の車庫の建屋は既に撤去され、既に単に電留線になっていたと思います。後ろに青梅駅に駅舎が見えます。バラストが新しいのを見ると、おそらく103系の入線に合わせ車庫を撤去し、電留線の配置も見直されたのではないかと思われます。なお青梅電車区は1971年2月1日に検修業務を廃止し所属車輛を豊田区に移管しています。

 1973年時点では青梅線にいたクモハ40023は遠く宇部に行き、本車が青梅線用車輛の中では最古参になっていました。

クモハ40033 (西トタ) 1976.12 青梅

クモハ40033 (西トタ) 1976.12 青梅

 当時の青梅線は立川ー青梅間で日中1時間に3~4本程度の運転間隔だったでしょうか。それがコロナ禍前には、E233系 10輌編成で6本の運転になっていました。ただちょっと輸送量過剰気味だと思っていたら案の定コロナ禍で5本に減らされてしまいました。

 また、1970年代の青梅線は青梅から奥多摩方面へ、土日はハイカーでかなり満員になるぐらいの輸送量がありましたが、近年は激減しているようです。そのため長らく30分に1本の運転間隔が維持されてたものの、現在日中は1時間に1本程度の運転本数となってしまったようです。とはいえ、昨夏、青梅鉄道公園休園前に訪問した時には、意外に奥多摩行きに乗り込む外国人観光客が多いのに驚きました。丹波山村でかなりインバウンド観光に力を入れているためのようです。

それはともかく、本車の車歴です。

1934.3.30 日本車輛東京支店 製造 東鉄配置 (モハ40113) → 1936.4.1 改番 (モハ40033) → (1947.3.1 現在 東イケ) → (1954.10.1 現在 東ミツ) → (1956.12.1 現在 東カノ) → 1960.11.19 東オメ → 1971.2.1 西トタ  → 1978.11.17 西ナハ → 1980.12.25 廃車 (西ナハ)

 本車は1934年に日本車輛東京支店にてい製造され、東鉄に配置されました。配置区は分かりませんが、1947年時点で池袋区にいて、その後中央線に移動しています。ただ当時の中央線はクロハを除いて大半が20m 4扉車でしたので、下河原線や、他の車輛の検査・故障時のピンチヒッター、牽引車代用として主に使われたのではないでしょうか。現在では電車は編成単位で管理され、編成の車輛を入れ替えるということはほとんどありません。入れ替えるとしても工場でのみ行われていると思います。しかし当時は1輌単位で管理されていたため、電車区の中で検査、修理などで編成を入れ替えることが頻繁にありました。中間電動車が多かったので、牽引車の需要も大きかったものと思われます。

 そして、1960年に17m車が中心だった青梅・五日市線に移動します。当時の配置表を見ると20m 車はクモハ40 x 2 およびクハニ67のみ 20m 車でそれ以外は17m 車に統一されていました。青梅線でのクモハ40の1970年代の運用は、基本立川ー青梅・武蔵五日市間の朝夕の増結用に限定されていましたが、おそらく青梅線配置当初から同様の運用形態ではなかったかと推測されます。

 1977年に青梅・五日市線103系で新性能化されますが、そこで廃車にならず、牽引車代用として中原区に移ります。ひょっとすると新鶴見区の職員輸送用にも使われたかもしれませんが、分かりません。その後中原区で余生を過ごした後、1980年に廃車となりました。ずっと首都圏を離れずに過ごしました。