省型旧形国電の残影を求めて

戦前型旧形国電および鉄道と変褪色フィルム写真を中心とした写真補正編集の話題を扱います。他のサイトでは得られない、筆者独自開発の写真補正ツールや補正技法についても情報提供しています。写真補正技法への質問はコメント欄へどうぞ

関西国電始源の1輌 阪和線のクモハ60151

 いよいよ8月に突入しました。今年はとりわけ暑さがこたえますが、皆様いかがお過ごしでしょうか。

 今回ご紹介する車両は阪和線のクモハ60151です。元々は、1933年に大阪の城東、阪和線国電が走り始めた時の1輌で、元番号はモハ41004でした。その右側はクモハ60059です。当時の阪和線の3扉車は関東の常磐線から移ってきた車輛が多かった中で数少ない由緒正しい生粋の関西の車輛でした。因みに当時の阪和線は、関西国電の始源から、最新の電車、さらにはDC特急まで多様な車両が運用され、さながら生きた鉄道博物館の様相を呈していました。

 本車は初配置から、出力強化後1961年まで28年の長きにわたって淀川電車区の主でした。しかし、淀川区への101系投入で明石に転出、さらに2年後には鳳に移動して、14年弱ほど阪和線で活躍しました。生涯大阪地域を離れずに活躍した車両です。

 最晩年は阪和線区間快速や普通として活躍しましたが、当時区間快速天王寺-鳳間を旧形国電が時速90km以上のスピードでかっ飛ばす様子は圧巻でした。もちろん電動機がMT-30, 40 の車両で揃っていたお陰でしょうが、旧形国電の健在ぶりを強く印象づける走りでした。当時、次に戦前型旧形国電が高速で走る区間は、飯田線大嵐-水窪間の大原トンネルだったように記憶していますが、そちらではせいぜい時速80km前後までで、85kmを超えることはなかったように思います。

 運転台の窓こそHゴム化され、関西型通風機を取り付けてはいましたが、最後まで関西を離れず、関西省電始元の姿を留めた貴重な存在でした。なお、戦前には京阪神間で運用されたことはないので、関西の戦前形国電の特徴であった列車種別を表示するための幕板のサボはありません。なお、以下の写真は本ブログの前身ブログに掲載していたものを再スキャン & 編集を行ったものです。

クモハ60151 (天オト) 1976. 3 鳳電車区日根野支区

では、本車の車歴です。

1932.12.7 汽車会社東京支店製造 (モハ41004) → 1933.1.12 使用開始 (大ヨト) → 1944.6.10 座席撤去 → 1948.12.6 座席整備 → 1951.12.6 更新修繕I (吹田工) → 1953.6.1 改番 (モハ60151) → 1957.12.28 更新修繕II (吹田工) → 1961.8.30 大アカ → 1963.8.23 天オト → 1977.2.14 廃車 (データは、鉄道史料保存会『関西国電50年』を参照)

 長らく大阪周辺で活躍した本車でしたが、生まれは東京です。因みに、大阪で最初に配置された40系電動車の内、大阪周辺で製造された車両は意外に少なく、モハ40018, 19(田中車輛) および、モハ41011(川崎車輌)のみでした。またこのグループのモハ41は全車奇数向き、クハ55は全車偶数向きで、モハ40はパンタグラフのある側が偶数向きでした。

 出力強化工事は、『国鉄電車ガイドブック旧性能電車編 (上)』によりますと、1951年に始まったそうなので、1951年の更新修繕の際に行われたものと思われます。ところで以前クモハ61004, 61005 を紹介した際に、出力強化された理由として、阪和形の社形国電に性能的に伍すためではないか、と申し上げましたが、本車は出力強化時に阪和線に配置されていません。もちろん当時モハ63などと混用されていましたが、やはり63と混用されていたクモハ31, 32 は出力強化工事など行われていません。ではなぜ本車は出力強化工事が行われたのでしょうか?

 実は1954年の淀川電車区の車両配置を見るとそのヒントがあります。当時の淀川電車区の車両配置は、モハ73, 35輌、モハ60,  7輌、モハ41, 2輌、モハ32, 1輌, モハ31, 12輌、クハ79, 14輌、クハ55, 13輌、クハ6230, 1輌、クハ6250, 2輌、サハ78, 12輌、クエ9100, 1輌という顔ぶれでした。

 クハ6230, 6250... ? そうです。阪和形社形電車が配置されていたのです。

 当時の淀川区の運用ははっきり分かりませんが、おそらく4扉車は城東線、3扉車は片町線を中心に運用されていたのではないでしょうか。そして阪和形は片町線用として配置されていたと推定されます。

 Wikipedia の記述を見ますと、阪和形の制御装置が国鉄制式のCS5, 10等に交換される工事が行われたのは、1950~51年に行われたようです。阪和形の淀川区転出はこの後に行われたと考えられます。また『関西国電50年』の記述では阪和形の淀川区転出は、1952年以降に関しては記載がありますが、それ以前に関しては記載がありません。しかし、1951年~1952年の初めにかけて電動車を含めて出入りがあった可能性があるのではないでしょうか。

 これらを考え併せると、あくまでも推測に過ぎませんが、更新修繕 & 主制御装置の更新を行った阪和形をある程度まとまった数で片町線で運用する計画があり、それと性能を合わせるために (阪和形は出力約150kwの東洋電機製ES-513-Aモーターを使用)、片町線用として想定されていた3扉車に対して出力強化工事が行われたものと思われます。

 しかし、阪和形は国鉄車に対して、自重が重かったこと(全金属製+魚腹台枠のため)、車体幅が若干広かったことで、片町線への転用は、電動車に関しては断念され、一部制御車の転用にとどまったのではないでしょうか。そのため阪和形の性能に合わせるための国鉄車の MT-30 (128kw) への換装は、関西ネイティブのモハ41の7両にとどまり、その後関東から転入したモハ41にまで及ぶことはなかったものと思われます。

 なお、『関西国電50年』を見ますと、最も遅くまで片町線で運用されていた阪和形は、1965年までいたようですが*1、最終的に全車阪和線にもどり、1966-68年に掛けて、関東の主として常磐線から転出してきたクモハ60や73に置き換えられる形で廃車となっていきました。

 本車は長らく淀川区にいた後、1961年に一時的に京阪神緩行線に転出しますが、1963年には阪和線に転出、元々想定されていたであろう、阪和形とともに働くことになります。そのまま大阪周辺を離れることなく、1977年に、関東からやってきた 103系に置き換えられる形で廃車となりました。

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なお、参考までに 1954.12.1 現在の淀川区の車両配置を記します。データ出典は当時の『鉄道ピクトリアル』誌です。

モハ73: 001~012, 013~019 (奇数), 020~029, 031~039 (奇数)

モハ60: 151~163 (奇数)

モハ41: 022, 127

モハ32 000

モハ31: 000~009, 011, 013

クハ79: 040, 045, 047, 049, 052, 054, 055, 056, 060, 066,  324~330 (偶数)

クハ55: 001, 004~007, 009, 012, 025, 034, 035, 052, 065, 071

クハ6230: 6231 (→25005)

クハ6250: 6258 (→25102), 6260 (→25110)

サハ78: 020, 211~214, 230~236

クエ9100: 9100

 なお、当時淀川区のモハ73 を見るとトップナンバー他初期番代が揃っていますが、実はこれらは吹田工場でモハ63から改造されています。つまり悪名高かったモハ63の73への改修は大阪から始まっていたのですね。これは編成の長かった関東では、63の改修は主として中間電動車であるモハ72化として行われる一方、モハ73への改修は編成の短い関西を中心に行われたためと思われます。従って、モハ73の付番は元の63の車番と全く関係がありません。しかし、これら 73 初期番代車の大半は、大阪環状線への101系の投入で1961年に上京します。東京のお下がりが大阪に回ってくることが多かった中で、珍しい逆パターンとなりました。但し73のトップナンバーは関東に行くことはなく、最後は大阪から広島地区に転じました。

*1:最後まで淀川にいた阪和形は下記の通りです。

クハ25103(←クハ6252←クタ7003) 1965.6.19 天オトへ転出
クハ25110(←クハ6260←クタ7011) 1965.6.19 天オトへ転出