本車は飯田線で活躍したオリジナルのクモハ54です。飯田線では当初豊橋機関区に所属していましたが、1978年の80系投入以降も伊那松島機関区に移って1983年の旧形国電終焉まで活躍した車両です。
ご覧のように客用扉脇の大鉄向け列車種別表示用サボ受けが残っていました。また運行灯はクモハ51とは異なり大型のものに交換されていました。
なお、筆者は1-3位側の写真が撮れていませんが、他の方の写真を見ると客用扉の形状は2-4位側と全く同一だったようです。
本車の車歴です。
1941.12.8 汽車會社東京支店 製造 (モハ54006 偶数向き)→ 1941.12.21 使用開始 大ヨト → 1943.9.20 大ミハ → 1944.5.17 座席撤去 → 1948.8.9 大オト → 1948.11.28 座席整備 → 1950.9.28 大ミハ → 1954.7 大アカ → 1954.10 大ミハ → 1955.8.25 更新修繕I 吹田工 → 1956.3.1 大タツ → 1962.9.15 大アカ → 1966.12.14 静トヨ → 1978. 10.13 静ママ → 1984. 2.10 廃車 (静ママ)
本車は、モハ54の第3次車として製作されましたが、このモハ54第3次車はすべて汽車会社東京支店で製造されました。最初の配置区はなぜか城東、片町線担当の淀川区でした。しかしまもなく宮原区に移ります。
ところで本車はクモハ54の偶数車でした。私の写真では電気側(山側)が撮れていないのですが、他の方の写真を見ると、抵抗器が3位側(後位側)にあるようです。つまり電気側機器の並びが関西標準ではなく関東と同じ並びになっています。これは本車のみならず、関西向けクモハ60を編入したクモハ54偶数車の全車に当てはまるようです。
では、クモハ54以降、関西での電気側機器配置が関東に合わせるようになったのでしょうか。これは違います。というのは1982年に鉄道史資料刊行会から出版された『関西国電50年』にある写真を見ると、戦後関西向けに作られたモハ63偶数車が電気側の関西式配置を維持している写真があります。
もう一つの可能性としてクモハ54やクモハ60の多くが関東のメーカーもしくは名古屋の日本車輛で、関西のメーカーが少ないので、艤装を関西でやらなかったのではないかという可能性が考えられます。本車も東京で製造されています。またこれに関しては『関西国電50年』に掲載されている写真の中に、関西に投入された、大鉄仕様ではない「標準型」という生産末期のモハ60 (モハ60104 但し製造は在阪の田中車輛) の写真があります。これは関東と同じ仕様だった可能性があります。関西向けの列車種別表示サボもなかったようです。しかし偶数車であるクモハ54002は1937年川崎車輌製で関西生まれですが、やはり後年の写真では電気側が関東式になっているようです。54002については製造時から関東仕様だった可能性は少ないと思います。この仮説は一部のクモハ54には当てはまるかもしれませんが、すべてのクモハ54に当てはめるのは無理があるように思います。
さらに第三の可能性として吹田工場の更新修繕でも床下機器の配置換えをやっていたのではないかということが考えられます。しかし当初関東向けのクモハ51に関してはまったく偶数車の機器の配置換え(海側と山側の転換)をやった様子が見られません。なぜクモハ54だけ... と思って再度『関西国電50年』を見直したところ、こんなことに気づきました。
クモハ51の関西向け全偶数車を含むクモハ51の大半は、更新修繕Iを1954年度までに終えています。それに対しクモハ54の大半(偶数車は全車)は、更新修繕Iが1955年度以降となっています。ひょっとすると1955年の更新修繕から、偶数車の電気側の配置を関東に合わるという方針変更があった可能性があります。またこれらの車両に関しては、運行灯も関東車と同様大型の運行灯に換装されています。
但し、クモハ51の関東向け若番偶数車の一部は1957~8年に吹田工場で更新修繕II を受けていますが、電気機器配置は海側のままです。そのことから考えると、仮に1955年度以降の更新修繕で機器配置の変更があったとしても、あくまですでに山側に揃っている関西向け偶数車の電気機器の配置を入れ替えるという範囲で、電気機器が海側にある車両の海と山の転換までは行われなかった、ということになります。ちなみに1957~8年に更新修繕IIを受けている若番クモハ51は運行灯のHゴム&大型化で揃っていますが、更新修繕IIのときに施行されたものかどうかは分かりません。
はっきりとは断言できませんが、この第3の可能性が当てはまるケースが一番多いように思われます。