省型旧形国電の残影を求めて

戦前型旧形国電および鉄道と変褪色フィルム写真を中心とした写真補正編集の話題を扱います。他のサイトでは得られない、筆者独自開発の写真補正ツールや補正技法についても情報提供しています。写真補正技法への質問はコメント欄へどうぞ

助士席側運転台窓が2段のまま残されていた阪和線 クモハ60004 (蔵出し画像)

 今回は阪和線の クモハ60004 です。阪和線のクモハ60 の多くは、関東のクモハ60の一大拠点であった常磐線の新性能化に伴って、旧阪和形の社形国電クモハ20の淘汰のためにやってきた車輛です。旧阪和形は、天王寺ー和歌山間を高速で結ぶため、当時としては非常に出力の高い電動機を備えており、それに伍するため共に使用される国鉄形も高出力電動機を備えた車輛が求められていました。戦前でも天王寺ー和歌山間の所要時間は約1時間と現在と変わらない高速、いや最近の紀州路快速は 70 分前後のようですので、現在よりも高速を誇っていました。

 なお阪和線のクモハ60は、当時快速運用は基本的には70系が就いていて、快速運用に就くことはほとんどなかったものと思われますが、区間快速運用でも天王寺ー鳳間で、時速 95km/h 前後のかなり高速な走行が求められていました。そのためか、おそらく冬場の隙間風対策で運転台の両方の窓が H ゴム化されている率が高かったのですが、本車は珍しく助手席側の窓が2段窓のまま残されていました。Hゴム化の比率も低く、趣味的には好ましいものでしたが。

 また、関西に移ったためパンタグラフもオリジナルの PS-11 が維持されていました。

クモハ60004 (天オト) 1976.3 鳳

 以下は床下です。偶数車で 2-4位側が電気になっていますが、これは戦後の更新修繕で空気電機の入れ替えが行われた結果と思われます。抵抗器はオリジナルのままです。

クモハ60004 (天オト) 1976.3 鳳

本車の車歴です。

1939.11 日本車輛製造 → 1940.3.30 使用開始 東鉄配属 → (1947.3.1 現在 東カマ) → 1953.11.30 更新修繕I 日本車輛東京支店 → (1954.9.1 および 1956.1.1 現在 東ヒナ) → (1957.11.1 現在 東イケ) → 1958.8 東マト → 1967.7.9 天オト → 1978.3.23 廃車 (天オト)

データ出典『関西国電50年』『旧形国電台帳』『鉄道ファン』『鉄道ピクトリアル』バックナンバー

 本車は 1939 年に日本車輛で製造されました。ノーシルノーヘッダーの準戦時型モハ60 の第1次車として誕生し、翌年東鉄に配属されました。1947年現在で蒲田区にいますので、おそらく 60001 と同様、当初から京浜線用として蒲田区に配置されていた可能性が高いものと思われます。モハ60のノーシルノーヘッダーの1次形のうち、001 ~ 025 が東鉄に配属されたようですが、おそらく全車京浜線用として蒲田区に配置されたものと推定されます。

 しかし 1950 年前後の京浜線の4扉車統一によって、横浜線に転出したと推定され、しばらく横浜線で使われますが、1957年には池袋区にいます。

 山手線は、1950年前後に20m 3扉車が排除され、4扉車もしくは17m 3扉車に一旦統一されますが、1956年頃からなぜか池袋区に20m 3扉車の配置が復活します。赤羽線用ではないかと推測されますが、手元にそれを裏付ける資料がありません。しかし、まもなく1958年に関東のクモハ60の牙城となった松戸区に移動します。その後は常磐線で使われましたが、先述のように常磐線の新性能化に伴い、松戸区に集まっていた多くのクモハ60が阪和線に移動 (一部は御殿場線電化のため静鉄に転出)、本車もそれに伴って関西に移動してきました。その後10年間阪和線で活躍しましたが、1977.3改正で阪和線の旧形国電の運用は終了、一時、紀勢線電化で転用される計画もありましたが、電化工事の遅れで霧散、その後 クモハ60001 と共に牽引車代用としてしばらく残されましたが、結局1978年に廃車となっています。

 

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[追記]

 気づいたら、この記事が blog 開始後ちょうど投稿 1000 記事目でした。