省型旧形国電の残影を求めて

戦前型旧形国電および鉄道と変褪色フィルム写真を中心とした写真補正編集の話題を扱います。他のサイトでは得られない、筆者独自開発の写真補正ツールや補正技法についても情報提供しています。写真補正技法への質問はコメント欄へどうぞ

阪和線にいたクモハ60 トップナンバー クモハ60001 (蔵出し画像)

 2024年新年あけましておめでとうございます。本年もよろしくお願いいたします。

 ところで本日は 1 月 1 日ということでそれにちなんでトップナンバーの車輌をご紹介します。クモハ41を出力強化して、1939年に登場したクモハ60のトップナンバー、クモハ60001 です。ちなみに、40系の一族のうち、比較的後年までトップナンバーが維持されていたのは本車とクハ55001、サハ57001 で、いずれも晩年は阪和線で活躍していました。

 なお本車に関しては確か阪和線の戦前形国電のうち最後まで残った車輌で、私の記憶では確か、阪和線営業運転引退後もしばらく残され、紀勢線電化の際、試験車として使われた経歴があったように思います。

クモハ60001 (天オト) 1976.3 鳳電車区

 残念ながらコンクリート柱がかぶってしまっていますが... 鳳電車区所属の車輛の中では、60006とともに埋め込み式ヘッドライトが特徴で、ノーシル・ノーヘッダーと相まって、遠くからでも本車だとわかる特徴を持っていました。なお、阪和線の半流の戦前製旧形国電は正面の運転台窓両方ともHゴム化されている車輌が多かったように思います。関西の平妻車は正面の運転台窓両方ともHゴム化されているケースが大半でしたが、半流車は、左側はオリジナルで残されている車輌が比較的多かったです。これはおそらく夏の暑さ対策として、通風性のある2段窓を残すという意図によるものと推定されます。しかし、阪和線の場合は、半流車であっても両方とも H ゴム化されている車輌のほうが多数派でした。これはおそらく区間快速運用があり、天王寺ー鳳間を時速 90km 以上でかっ飛ばしていましたので、風圧が高く、そのためではないかと推定します。

クモハ60001 (天オト) 1976.3 鳳電車区

 抵抗器は3基が、70, 73系と同じものに交換されていました。

クモハ60001 (天オト) 他 1976.3 山中渓付近

 山中渓付近をさっそうと駆け抜ける本車です。

クモハ60001 (天オト) 他 1976.3 山中渓付近

では本車の車歴です。

1939.11 日本車輌製造 → 1940.3.30 使用開始 東鉄配属 → (1947.3.1現在東カマ) → 1951.1.23 更新修繕I 大井工 → (1954.9.1現在 東ヒナ) → 1954.11.25 更新修繕II 汽車会社東京支店 → (東ヒナ) → 1966.2.18 大アカ → 1967.5.19 天オト → 1978.8.11 廃車 (天オト)

 本車はモハ41 を MT-30 に出力強化したモハ60 のトップナンバーとして1939年に製造されました。1947年には京浜東北線にいましたので、おそらく当初から蒲田電車区に配置されていたものと推定されます。しかし、1950年前後の京浜東北線からの 20m 3扉車排除の方針を受け横浜線に移ります。ひょっとするとそれも、トップナンバーであることですし、当初配置の京浜東北線からほど近いところへという配慮があったのかもしれません。おそらく1951年の更新修繕を契機に移った可能性が高いと思います。

 その後長らく横浜線で活躍した後、73系に押し出されて関西に移ります。当初は京阪神緩行線で使われましたが程なく阪和線に移り、社形電車を置き換えました。そして上で述べたように、事業用車を除いては鳳電車区に最も最後まで残った戦前製国電となりました。