省型旧形国電の残影を求めて

戦前型旧形国電および鉄道と変褪色フィルム写真を中心とした写真補正編集の話題を扱います。他のサイトでは得られない、筆者独自開発の写真補正ツールや補正技法についても情報提供しています。写真補正技法への質問はコメント欄へどうぞ

唯一の半流クハ58を4扉化した 片町線クハ79055 (一部蔵出し画像)

 今回ご紹介する車はモハ43系の珍車中の珍車、狭窓43系中唯一の半流線型、クハ58025の後身であるクハ79055 (大ヨト)です。写真は1976年3月、片町線 (今は通称学研都市線となり、終着の片町駅もなくなってしまいましたが...) で最後の活躍を続けるクハ79055の姿です。両サイドともご覧頂きましょう。

クハ79055 (大ヨト) 1976.3 放出

クハ79055 (大ヨト) 1976.3 鴫野

クハ79055 (大ヨト) 1976.3 鴫野

 運転台窓は両側とも H ゴム化されています。おそらく原形は左側は二段窓だったはずです。

クハ79055 (大ヨト) 1976.3 放出

 ニス塗りの美しい室内が風格を感じさせます。私の住んでいた関東の旧国は車内がモスグリーンにペンキ塗りされた車両がほとんどだったので、関西の乗客たちはずいぶん贅沢な電車で通勤していたのだなぁと、当時とてもうらやましく思ったものですが、当時の関西の乗客たちはニス塗りの旧国に「ボロ電」と罵声を浴びせていました。でも今、普通の通勤電車の車内が無機的なプラスチックの内装に囲まれているのに対して、JR九州の豪華列車がふんだんに木の内装を採用しているのを見れば、当時の多くの人々は身近な贅沢に何も気付いていなかった、ということは明らかでしょう。
 また運転台は元々半室だったものが全室に拡張されたことが判ります。

クハ79055 (大ヨト) 1976.3 片町

 なお、上の写真を見ると、客室貫通路扉が、鋼製のプレスドアではなく、本来の木造ドアで残っています。関東の国電の場合、元々貫通路は幌もなく乗客が使うものではなく、業務用に使うものとされていたため、製造時は隙間風を防止するための密閉性を確保する点から開き戸でした。しかし、1951年の桜木町事故で多数の乗客が車内に閉じ込められ焼死したことから、幌をつけ開き戸の貫通路も乗客が使いやすいように引き戸に改修したため、その際にすべてプレスドアに改修されました。

 しかし、関西の京阪神間に投入された車両の場合は、幌が備えられており、貫通路も当初から引き戸となっていました。これらの車両の中には、更新修繕の際プレスドアに交換されたものもありましたが、吹田工場で更新修繕を受けた車両はプレスドアに交換されなかった場合も多かったようです。

 因みに、車体側面の客用扉は、オリジナルは木製もしくは軽合金でしたが、これらは更新修繕時にすべて鋼製のプレスドアに交換されています。これは戦後混乱期に超満員の乗客を乗せていた時、木製のドアでは強度が不足してドアが破損する事故があり、交換されたのですが、関西国電の貫通路扉に関しては、関東ほど混雑がひどくなかったため交換されずに残された車両があったものと推定されます。

クハ79055 (大ヨト) 1976.3 片町

 車内運転台部分です。元々半室運転台だったものを全室化改造してあります。

クハ79055 (大ヨト) 1976.3 片町

 元半室運転台なので、内側にも引き戸があります。

クハ79055 (大ヨト) 1976.3 片町

クハ79055 (大ヨト) 1976.3 片町

クハ79055 (大ヨト) 1976.3 片町

 正面貫通路部分。隙間風を防ぐためにガムテープが貼られています。

クハ79055 (大ヨト) 1976.3 片町

クハ79055 (大ヨト) 1976.3 片町

 こちらは元々の半室運転台を全室化したためにできた段差部分です。殺虫消毒の記録票差しがありました。

クハ79055 (大ヨト) 1976.3 片町

クハ79055 (大ヨト) 1976.3 片町

 連結面には49-11吹田工との全検の年月の記録。そして樋管はオリジナルが維持されていました。

では、本車の車歴です。

1936.3.31 日本車輛製造 (クハ58025) 大ミハ → 1937.11.6 大アカ → 1945.11.1 改造 鷹取工 (クハ85025) → 1948.8.6 大ミハ → 1948.12.2 座席整備 → 1949.7.8 改番 (クハ79055) → 1950.11.14 大ヨト →1954.10.6 更新修繕 I 吹田工 → 1961.4.1 大モリ → 1961.11.29 大ヨト → 1976.11.20 廃車 (大ヨト)

※データ出典『関西国電50年』

 本車は、1936年3月にクハ58の最終増備車として日本車輛で製造されました。クハ58は、大半が1933年から34年にかけて製造されましたが、最後の2両のみが日本車輛で製造され、024が1935年5月に落成、そして本車は1936年3月に落成しました。1935年度後半からは国電の標準設計が半流になりましたので、本車は唯一の半流クハ58として落成し、宮原区に配置されました。1937年に明石区が開設されると、急行運用に就かない車両はそちらに移動することになります。その後、戦時対策として 43系は全車4扉もしくは3扉化される計画が立てられ、本車は敗戦後の1945年11月に鷹取工場で4扉化されます。その後、1950年に京阪神緩行線セミクロスシート復活計画が立てられると、京阪神緩行線の4扉車は城東線に移動し城東線は原則4扉車で統一することとなり、城東線の3扉車は京阪神緩行線に移動してセミクロスシート化されることになります。それに伴い本車も城東線用として淀川区に移動します。そして関西の3扉ロングシート車は、原則として城東線より閑散だった片町線のみに残ることになります。今日片町線 (学研都市線) が4扉車で統一される一方、大阪環状線が3扉車で統一されているのと反対です。

 またこの時関西急電の2扉車は阪和線に転用されるとともに、不足分は、片町線のモハ40を出力強化した61で一旦埋められます。さらに一部の阪和形の制御車が国鉄形と連結するために連結器の密連改造を受けます(すべての密連改造が行われるのは、1954-55年頃です)。

 このあたりは、1950年頃関東の国電について、混雑の激しい中央、京浜東北、山手線が原則4扉車で統一される一方(山手線に関しては17m 3扉車を併用)、3扉ロングシート車は、常磐、総武、横浜線に集中的に配備され、買収国電区間は 制式 17m 車に統一する動きと軌を一にしていると思います。併せて関西でセミクロス化するのに不足する 3 扉車は、関東の4扉化で余剰になった 3 扉車を当てるとともに、それと交換で関西の 2 扉車が横須賀線に転用されました。

 ともあれ、その後本車は城東線 (のち大阪環状線) 用として活用され、1961年森ノ宮区が開設され大阪環状線用車輛が移動すると、それに伴い本車も森ノ宮区に移ります。しかし、すぐ大阪環状線の新性能化 101 系の投入が始まったため、1年もたたずに淀川区に出戻りし、そのまま片町線で新性能化まで活躍しました。

 

 ちなみに、かつては、大阪で初めて電化された (1932年) 城東・片町線の拠点だった大阪最古の電車区、淀川電車区も旧国がなくなったあと放出駅南東に移転し、さらに森ノ宮電車区放出支所をへて、網干総合車両所放出支所と名称も変わってしまい、東西線と直通運転を始めた片町線共々ずいぶん様変わりしてしまいました。