こちらは、かつて戦前形旧形国電の中間車が集まっていた岡山地区で撮影したサハ57です。岡山では数少ないロングシート車でした。このサハ57は、通常のサハ57と窓配置が異なっています。というのは元々京浜東北線用のサロハ56として製造され、戦時中の2等車廃止 & 座席撤去でサハ57に編入されたグループでした。
同グループには大糸線でトイレ付に改造されたサハ57402があり、これが最後まで残った同グループのサハ57となりました。
では本車の車歴です。
1933 鉄道省大宮工場製造 (サロハ56011) → 1933.12.28 使用開始 (東鉄) → 1943.7.9 改造 大井工機部 (サハ57058) → (1947.3.1 現在) 東カマ → (1954.11.1 現在) 東マト → 1958.9 東チタ → 1959.8 東シナ → 1959.9 千ツヌ → 1966.12.19 岡オカ → 1976.10.14 廃車 (岡オカ)
本車は鉄道省大宮工場でサロハ56011として製造されました。当時、電車としてはメーカーで製造されなかったのは異例です。40系は当初関西向きに製造されましたが、本車は東京の京浜線向けの2,3等車として製造されました。おそらく配置は京浜線の車両基地だった蒲田電車区に配置されたものと思われます。しかし、戦時中の京浜東北線の2等車廃止で座席撤去を受け、通常のサハ57に編入されます。
戦後、京浜東北線では連合軍専用車の導入を経て2等車が復活しますが、おそらく日本人と分離するためか、専用指定車輛は下り向き先頭車両とされたため、新たにクハ16やクハ55がクロハとして改造され、本車の2等車部分の復活はなりませんでした。
1947年現在蒲田区にいますが、おそらく配置当初からそのまま在籍していたものと思われます。しかし、1950年頃に混雑対応から、先述のクロハを除いて、京浜東北線の63系による20m 4扉車統一が進められ (それがのちの桜木町事故につながりますが)、やや閑散な常磐線に移動します。1958年には田町区に移動していますが、これは一時的な横須賀線の車両不足への応援として入ったものと思われます (おそらく本車自体の更新修繕と、さらに70系第一次車の更新修繕の応援のためではないかと推定します)。その後はやはり20m3扉車が集められていた総武線に移動します。当時の総武線は今日とは異なり、中央線との直通運転は朝夕の限定的な時間帯のみで、日中は御茶ノ水で運転系統が分離されていました。
1966年には総武線の新性能化の開始で、山手線、赤羽線などから移ってきた101系に追われ、33年にわたる首都圏暮らしを終えて岡山に移動し、最後の10年間を岡山地区で過ごしました。