省型旧形国電の残影を求めて

戦前型旧形国電および鉄道と変褪色フィルム写真を中心とした写真補正編集の話題を扱います。他のサイトでは得られない、筆者独自開発の写真補正ツールや補正技法についても情報提供しています。写真補正技法への質問はコメント欄へどうぞ

横須賀線に最後まで残った普通2扉車だった岡山の サハ48027 (蔵出し画像)

 1970年代の前半に、首都圏の新性能電車の投入で押し出されたモハ72やサハ78によって、京阪神地区の戦前形中間車が姿を消していった中、岡山地区は戦前形中間車の一大牙城となっていました。というのは、岡山地区は、基本的に McTTMc とクモハ51によって中間車が挟まれる4両編成で運用されていて、全国各地から戦前形旧形国電の中間車が集められていたためです。

 その中から今回とりあげるのはかつて横須賀線で活躍した32系の中間車です。先日補正のやり直しを行ったクモハ51003の次位に連結されていた車です。

サハ48027 (岡オカ) 1975.8 岡山駅

本車の車歴です。

汽車會社東京支店製造 → 1932.3.7 使用開始 東チタ → (1947.3.1現在) 東ヒナ → (1954.10.1現在) 東チタ → 1960.4.20 東フナ → 1964.2.10 岡オカ → 1976.10.14 廃車 (岡オカ)

 本車は、1931年度に汽車会社東京支店で横須賀線用32系の一員として製造され、1932年3月に使用開始になっています。1947年3月の段階では横浜線に転出していますが、これは戦時中に疎開のため転出したのか、あるいは一時的に進駐軍専用車として転出したのかは分かりません。仮に一時的に進駐軍専用車になっていたとしても、ロングシート化されていませんので、短期間だったはずです。しかし、少なくとも1954年の段階では田町区に戻っています。1950年前後に、63系の大量増備で20m3扉車が、常磐線横浜線総武線に押し出されていますのでそれを契機に田町区に戻った可能性が高いと思われます。その後、クハ化されることなくかなり長い間横須賀線で活躍しましたが、111系の投入が始まり、1964年2月に岡山区に転出しています。この直後、横須賀線に残った2扉車は一斉に3扉化改造を受けていますが、サハ48は3扉化には不適切と判断されたのでしょうか。しかしそれが幸いして、最後まで原型に近い姿を維持しました。おそらくサロを除けば最後まで横須賀線に残った2扉車だったと思われます。しかし3扉化された仲間も1年程度で地方線区に転出していますので、これらの車輛も3扉化されなかったら... と思わずにはいられません。

 ずっと関東暮らしが長かった本車ですが、大阪を飛びこえて遥々岡山までやってくることになりました。そして塗色も久しぶりにブドウ色に戻ることになります。岡山ではトイレ付ということで重宝されたと思います。岡山暮らし12年で、東北線から押し出されてきた非冷房の115系に置き換えられることとなり廃車となりました。