今回は身延線の珍車の中の一両、クモハ51830です。長年阪和線の異端児 (アイドル?) として活躍した車両ですが、京阪神緩行線103系投入の余波を受けて身延線に押し出されてきた車両です。元々は、モハ42を片運化 & 3扉化し、しかもMT-30へ出力増強まで行っていたクモハ51073というたった一両の異端車です。鉄道模型的にはクロハ59改造クハ68と連結させるとぴったり合いそうですが、身延線にいたクハ68はいずれもトイレなしだったので、実際にはそのように運用される機会はほとんどなかったと思います。
正面の幌枠は、小窓なしでしたが、こちらはあります。
ジャンパ栓受けが台座についていますが、これは身延線転入時に方向転換されたためです。低屋根化時の改造銘板はありません。
DT-12形台車です。車輪はスポークでした。
本車の車歴です。
1934.1.7 梅鉢鐵工所製造 (モハ42012 奇数向) → 1934.7.14 使用開始 大ミハ → 1937.11.6 大アカ → 1944.7.21 座席撤去 → 1944.7.26 改造 後部運転台撤去 (モハ51073) → 1948.5.28 大ヨト → 1948.11.12 座席整備 → 1949.4.8 大アカ → 1950.11.28 天オト → 1953.11.2 更新修繕I & 改造 (3扉化整備, 電動機MT30化) 吹田工→ 1970.2.29 静ヌマ → 1970.6.8 改造 浜松工 (クモハ51830) → 1981.8.22 廃車 (静ヌマ)
もともと本車は京阪神間向けモハ42012として製造されました。1937年に明石区の開設で51系が明石区に集められますが、その際、流電の投入で急行運用から外れ、普通専用になった2扉車も共に明石区に移ります。戦時中モハ42は001~010はモハ40, 41と台車を振り替え4扉化、そして011~013は台車を振り替えず3扉化される計画が立てられました。それに伴い、1944年に改造されますが、この時は資材不足で後部運転台撤去のみでした。戦後淀川区に移り、座席整備を受けて再び京阪神緩行線に復帰しますが、それもつかの間、9月に移動した流電らの後を追う形で、11月になぜか阪和線に転じます。この時点では、東京から元モハ51のモハ41を迎えて緩行線が3扉車に統一される一方、本車はまだ2扉のままで横須賀線にも行かなかったため、運用上使い勝手が悪く、流電ら2扉車が行った阪和線に追い払ったのかもしれません。
1953年に更新修繕を兼ねて、形式通り3扉化整備が行われ、また、出力の大きいモーターを搭載した阪和型社形電車に近い性能を確保するため、他の流電とともに電動機のMT30化による出力増強が行われます。本来この時点でモハ54に編入されるべきだったと思いますが、なぜか番号の変更はなくモハ51073のままでした。
3扉化され、さらに他の流電一族が静鉄に転出した後も、本車はなぜか京阪神緩行線に復帰することなく阪和線に残され、のちにオレンジに塗り替えられて、70系を除けばロングシート車で占められていた、阪和線の異端児として長年活躍していました。通常このような異端車は通常運用の不都合から排除されがちなのが普通ですが、セミクロスシートが乗客に好評だったのでしょうか?しかし1970年に、103系の投入で明石区から鳳区に押し出されてきた73系4扉車に押される形で身延線用として沼津区に転出します。この時低屋根化改造を受けるとともに偶数向きに転換します。そのため、関東出身の51と同様、2-4位側が電気になっていました。低屋根化当初もしばらくは次の全検までオレンジ色のまま走り続け、異彩を放ったようです。なおクモハ51073時代はパンタグラフはPS-11を維持していましたが、低屋根化改造時にPS-13に載せ替えられたようです。そして115系化まで10余年間、身延線を走り続けました。
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