この車輌は当時残存していたクモハ43の内、もっとも若い番号を付した車輌でしたが、残念ながらパンタグラフがPS-13に交換されていました。パンタグラフの色は灰色です。写真は辰野駅('78.1)で撮ったのですが、早朝、逆光気味の露出不足であまり良い写真ではありません。しかし残念ながらこの車に出会えたのはこの時しかありませんでした。クモハ43 は、80系導入後、モーター出力が小さいためか、43015 を除いてすべて廃車になってしまいましたので。正面の幌枠は原形通りのものが残っていました。
ちょっとわかりにくいかもしれませんが、この車の特徴は、PS-13化と共に、前照灯の取り付け位置がなぜかちょっと右に寄っている点です。
この車両の車歴も『関西国電50年』および『鉄道ピクトリアル』のバックナンバー、『我が心の飯田線』サイトにある「飯田線車輌小史」情報 (http://kokuden.net/mc53/sub.htm/sub1.html) から抜粋して紹介しますと、
1934.3.3 大阪鉄工所製造 (モハ43007) → 使用開始 1934.7.7 大ミハ→ 1950.2.28 更新修繕I (吹田工)→ 1950.9.16 東チタ → 1956.1.26更新修繕II (豊川分工) → 1957.2 東イト → 1957.12 静ママ → 1978.10.19 静トヨ → 1978.11.17廃車 (静トヨ)
本車は関西国電の雄として京阪神緩行線に配置されましたが、1950年に、関東の元モハ51 (当時はロングシート化でモハ41に編入) などの3扉車と交換で横須賀線に転用されました。関西には16年、横須賀線では7年、飯田線では21年あまりを過ごしたことになります。1957年に横須賀線で使われていたクモハ43を偶数車のみに集約することになって、奇数車であった本車は伊東線に出されます。おそらく横須賀線の混雑が激しくなって、2扉車だったクモハ43を比較的閑散だった下り寄りに集約するのと、横須賀ー久里浜間の小運転 (2輌編成) の運用の都合から、偶数車に集約されたのでしょう。この小運転のためすべてを70系に集約することはできなかったのだと思います。その後、横須賀線に残った偶数車は、さらなる混雑の激化ですべて3扉化され、クモハ51200代もしくはクモハ50となりました。
伊東線に移って間もなく、さらに飯田線に移り、ここで最も長い時間を過ごしました。このグループ (32 + 43系 2扉車)、後年の国鉄の形式図では「静岡形」と称されていたのですが、それもさもありなん。因みに「大阪形」は51系グループでした。
なお最後は豊橋機関区に移っていますが、廃車予定車の管理都合上と思われます。
この写真は、以前のブログに掲載した写真ですが vuescan を使ってスキャンし直しを行っています。