本車は元クハ58のグループの内、身延線では唯一幌枠が残っていた車両です。クハ58は1950年に上京して横須賀線に配備されましたが、1951年からの70系の投入でモハ32(後のクモハ14)を静鉄に転出させるにあたり、足りないクハの補充として全車モハ32のお供で静鉄に転出しました。その後、1958年に飯田快速編成を非貫通のMcTc+McTcではなく、貫通4両編成に変更することとなり、それに充てるために貫通路のついていた富士電車区のクハ47100代の過半数が飯田線・豊橋区に転じました。
身延線に残ったクハ47100代は、幌枠を撤去し、運転室を全室化し、貫通路を使用しないこととなりましたが、本車は更新修繕IIの際にオリジナルの幌枠が撤去されずそのまま残りました。あるいは飯田線転属の可能性も考えて敢えて残したのかもしれません。但しこの幌枠は、飯田線に転属した47100代に更新修繕IIの際に設置された幌枠とは異なります。しかし、本車が飯田線に転出することはなく、1981年の新性能化まで身延線で活躍しました。
なお、正面貫通路には、かつて貫通路乗客未供用時代の関東国電にあった、3-4位の貫通路に設置されていたような大型の手すりが設置されました。幌は復活することはありませんでしたが、業務目的で乗務員が正面貫通路を使う可能性を考慮していたのでしょうか。この手すりは本車と47106に設置されていました。
なお、正面右側の運転台窓がやや小さめになっている点が、他のクハ47100代と異なります。
では本車の車歴です。
1934.1.15 田中車輌輛製造 (クハ58020) 大ミハ → 1937.11.6. 大アカ → 1938.9.30 大ミハ1944.6.25 座席撤去 → 1948.11.25 座席整備 → 1950.2.8 更新修繕I 吹田工 → 1950.9.16 東チタ → (1951頃? 静フシ) → 1952.5.3 便所取付 →1953.6.1 改番 (47110) → 57.8.29 更新修繕II 豊川分工 → 1969.4.11 静ヌマ → 1982.2.12 廃車 (静ヌマ)
本車は、1934年、大阪の田中車輛(後の近畿車両)で製造され、東海道・山陽線京阪神区間に配備されました。1937年、流電の投入を受けて急電運用から外れたのか、モハ42などとともに一旦明石区に移りますが、すぐ宮ノ原に復帰します。戦時中は座席撤去を受けるものの4扉化は逃れ、1950年には更新修繕を吹田工場にて受けます。しかし間もなくすぐ上京しますが、1年余りでモハ32のお供で身延線にやってきて便所取付工事を受けます。1953年の番号整理で改番、そして1957年豊川分工場で、運転台の全室化や運転台窓のHゴム化を受けます。結局キャリア最長の31年余りを身延線で過ごしました。なお本車は、クモハユニ44801とともに、1981.8.31の身延線旧形国電最終運行を勤めました。
なお客室内はニス塗りが維持されていました。
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