省型旧形国電の残影を求めて

戦前型旧形国電および鉄道と変褪色フィルム写真を中心とした写真補正編集の話題を扱います。他のサイトでは得られない、筆者独自開発の写真補正ツールや補正技法についても情報提供しています。写真補正技法への質問はコメント欄へどうぞ

身延線の EF10 8 (蔵出し画像)

 主に旧形国電の写真を撮っていましたが、フィルムの合間に電機の写真も撮っていました。もっとも当時はフィルムだったので、フィルム代を考えるとそうたくさん撮ることはできませんでした。今回のそのうちの数コマです。

 私が通っていた小学校は東海道本線のすぐわきにあり、当時はまだ東海道本線の貨物の先頭にさっそうと立っていた EF10 でしたが、写真を撮った頃になると東海道本線を追われ、身延線飯田線南部の貨物仕業に使われていました。本車は甲府機関区に移り、身延線のローカル貨物の牽引に使われていた EF10 8 です。リベットのついた初期型タイプでいかめしい姿をしています。なつかしさで撮った写真です。それもやがて戦後生まれの EF15 に置き換えられてしまいますが...

EF10 8 (甲) 1977.5 富士電車区

EF10 8 (甲) 1977.5 富士電車区

 三菱電機の製造銘板です。

EF10 8 (甲) 1977.5 富士電車区

 戦前電機らしいいかめしい台枠です。

本車の車歴です。

1934.10.15 三菱電機製造 → 使用開始  1934.10.26  国府津 → (1945.3 現在 水上) → (1955.3 現在 国府津) → 1971.4.28 甲府 → 廃車 1978.01.11 (甲府)

車歴は以下のサイトを参照しました。記して感謝いたします。但し甲府転属に関しては鉄道ファンの車輛の動きを参照しています。

失われた鉄道情景を求めて (iwana氏作成)
http://silkroad2000.web.fc2.com/rireki.htm データ参照元は鉄道ピクトリアル 178号

デンチュウの鉄道ページ
http://tnk-ko.a.la9.jp/gallery/ef10_index.html

青梅線の最古参 クモハ40033 (一部蔵出し画像)

 自分がなぜ旧形国電ファンになったのかを思い返してみると、片野正巳さんが書かれた『陸蒸気からひかりまで』という1:150スケールで描かれた国鉄車輛イラスト集が思い当たります。当時の男の子たちのご多分に漏れず蒸気機関車が好きでした。とはいえ当時お子ちゃまで親に連れて行ってもらえないと遠出はできないうえ、蒸気機関車は関東付近ではほぼ一掃され、蒸気機関車が現役で動く姿見られたのは、かろうじて八高線D51 のさよなら運転と、鉄道100年の記念列車が高島貨物線で運転に間に合ったぐらいでした。小学校の同級生の中には、小学生なのに一人で遠出し、カメラを持って北海道まで写真を撮りに行く猛者もいましたが...

 しかし、蒸気機関車以外にも心惹かれたのがこのイラスト集に描かれた戦前の旧形国電の車輛群でした。やはり親に連れられて青梅鉄道公園に行くために青梅駅に来ると、片野さんのイラストで見慣れた電車がそのまままだ現役でいるのに気づきました。これが本車とその後ろにいるクモハ40039です。まだ戦前生まれの電車が現役でいる! と非常に感激しました。これが自分にとっての旧形国電ファンになった原点です。

クモハ40033 (西トタ) 1973.5 青梅

 後ろにオレンジの101系が見えますが、これは中央線からの直通車です。

 以下はその3年後、青梅線が新性能化されると聞いて、慌ててカメラを持って駈けつけて撮った写真です。京浜東北線から転属してきた103系がすでにスカイブルーの塗装のまま入線していました。上の写真では残っていた旧青梅電車区の車庫の建屋は既に撤去され、既に単に電留線になっていたと思います。後ろに青梅駅に駅舎が見えます。バラストが新しいのを見ると、おそらく103系の入線に合わせ車庫を撤去し、電留線の配置も見直されたのではないかと思われます。なお青梅電車区は1971年2月1日に検修業務を廃止し所属車輛を豊田区に移管しています。

 1973年時点では青梅線にいたクモハ40023は遠く宇部に行き、本車が青梅線用車輛の中では最古参になっていました。

クモハ40033 (西トタ) 1976.12 青梅

クモハ40033 (西トタ) 1976.12 青梅

 当時の青梅線は立川ー青梅間で日中1時間に3~4本程度の運転間隔だったでしょうか。それがコロナ禍前には、E233系 10輌編成で6本の運転になっていました。ただちょっと輸送量過剰気味だと思っていたら案の定コロナ禍で5本に減らされてしまいました。

 また、1970年代の青梅線は青梅から奥多摩方面へ、土日はハイカーでかなり満員になるぐらいの輸送量がありましたが、近年は激減しているようです。そのため長らく30分に1本の運転間隔が維持されてたものの、現在日中は1時間に1本程度の運転本数となってしまったようです。とはいえ、昨夏、青梅鉄道公園休園前に訪問した時には、意外に奥多摩行きに乗り込む外国人観光客が多いのに驚きました。丹波山村でかなりインバウンド観光に力を入れているためのようです。

それはともかく、本車の車歴です。

1934.3.30 日本車輛東京支店 製造 東鉄配置 (モハ40113) → 1936.4.1 改番 (モハ40033) → (1947.3.1 現在 東イケ) → (1954.10.1 現在 東ミツ) → (1956.12.1 現在 東カノ) → 1960.11.19 東オメ → 1971.2.1 西トタ  → 1978.11.17 西ナハ → 1980.12.25 廃車 (西ナハ)

 本車は1934年に日本車輛東京支店にてい製造され、東鉄に配置されました。配置区は分かりませんが、1947年時点で池袋区にいて、その後中央線に移動しています。ただ当時の中央線はクロハを除いて大半が20m 4扉車でしたので、下河原線や、他の車輛の検査・故障時のピンチヒッター、牽引車代用として主に使われたのではないでしょうか。現在では電車は編成単位で管理され、編成の車輛を入れ替えるということはほとんどありません。入れ替えるとしても工場でのみ行われていると思います。しかし当時は1輌単位で管理されていたため、電車区の中で検査、修理などで編成を入れ替えることが頻繁にありました。中間電動車が多かったので、牽引車の需要も大きかったものと思われます。

 そして、1960年に17m車が中心だった青梅・五日市線に移動します。当時の配置表を見ると20m 車はクモハ40 x 2 およびクハニ67のみ 20m 車でそれ以外は17m 車に統一されていました。青梅線でのクモハ40の1970年代の運用は、基本立川ー青梅・武蔵五日市間の朝夕の増結用に限定されていましたが、おそらく青梅線配置当初から同様の運用形態ではなかったかと推測されます。

 1977年に青梅・五日市線103系で新性能化されますが、そこで廃車にならず、牽引車代用として中原区に移ります。ひょっとすると新鶴見区の職員輸送用にも使われたかもしれませんが、分かりません。その後中原区で余生を過ごした後、1980年に廃車となりました。ずっと首都圏を離れずに過ごしました。

McMTc'Tc という変な編成だった身延線の 115系 クモハ115-2008他 (蔵出し画像)

 今回は、旧形国電ではなく身延線に新製配置された頃のピカピカの 115系の写真です。といっても身延線115系もすでに過去帳入りとなっています。赤色2号、ワインレッドカラーの 115系です。

 冷房装置は、都市部では設置が進んでいまいたが、本車は閑散区間用の為準備工事のみ行われていました。また今は常識となっている側面の方向表示器も準備工事のみで、サボが使用されていました。

クハ115-2029 (静ヌマ) 1981.6 富士電車区

クモハ115-2008 (静ヌマ) 1981.6 富士電車区

モハ114-2608 (静ヌマ) 1981.6 富士電車区

 パンタグラフのあるモハ 114 は、身延線のトンネル断面が他の山用区間よりさらに低いため、山用の折り畳み高さの低いパンタグラフ PS-23 を使っているにもかかわらずさらに低屋根化する必要があり、2600代となっています。なお JR 東海になってから新たに設計された車輛は身延線入線可能な車輛限界を採用しているはずです。

クモハ115-2008 (静ヌマ)他 1981.6 富士電車区

 ところで、上のクハ115の写真を見て、おやっと思いませんか? クハ115-2029の後ろにつながっているのは電動車ではありません。トイレが見えていることからクハ115であることが分かります。つまり McMTc'Tc という編成なのです。クハ115がおしりを突き合わせてつながっているなんて変でしょう? 普通はトイレの位置を等間隔にすることから、つなぐなら Tc'McMTc にするところです。

 新製配置で配給の都合で一時的にこうしているのではなく、実際この編成で営業運転に入っています。なぜこんな変な編成なのでしょう。

 これは一つは、モータリゼーションによって乗客数が減っていたので、いずれ4両編成はなくなり、3輌で運転するであろうことから、Tc の1輌はいずれどこかに転用する予定で作っていたことが一つの理由でしょう。

 もう一つの理由は身延線の運用の在り方にあります。当時の身延線の旧形国電は、4輌、2輌の運用になっていました。そして4輌運用は McTMcTc もしくは McTcMcTc で組まれており、この McTMcTc の中間の  Mc にはクモハ51850 代が充てられ (アコモ改善車導入前はクモハ43800代も) めったに先頭に立つことがなかったのは、当時のファンならご存じのことかと思います。

 実はこの中間のクモハ、乗務員にとっては非常に便利な存在でした。というのは身延線無人駅が多く、運行中車掌は車内補充券を発券するのに大忙しでした。その上身延線は元私鉄のため、結構駅間隔が短くなっていました。ということは駅が近くなってドアの開閉扱いを行うたびに、車内補充券の発券を終えて最後部車両まで移動しなければならないとなるとかなり大変です。

 そのため、中間に入ったクモハの運転台からドアの開閉扱いを行うことが頻繁にありました。それにはクモハ51850代の存在は非常に便利だったのです。おそらく安全確認面でも最後部から確認するよりは中間から確認した方がやりやすいはずです。ところが、クモハ43800代などと入れ替えでやってきた 72 系改造アコモ改善車は TcMM'Tc で作られてしまいました。これは、電車を作る側からすればごくごくノーマルな発想です。しかしこのためアコモ改善車が運用に就くと、車掌は駅が近づくたびに常に最後尾まで飛んでいかなければならなくなりました。

 そのため乗務員、特に車掌からはアコモ改善車はかなり嫌われたのではないでしょうか。おそらく乗務員からかなり苦情が寄せられて、115系が配置された際には、 McMTc'Tc という編成にして、車掌が常に最後尾まで飛んでいかなくても済むようにしたのではないかと思われます。また当時は McMc' で作るとか (後に短編成化改造で生まれましたが)、旅客用に 1M方式の電動車を用意するという発想もなかったと思います。荷物車には 1M方式の新性能電動車がありましたので、技術的に無理だったわけではないと思いますが。ちなみに以前記事で紹介しましたが、韓国鉄道公社では中間車にもドア開閉スイッチを設けるとともに車掌に運転士と連絡するためのトランシーバーを持たせて、運転台に戻らなくてもドア開閉作業を可能にしています。

 現在の身延線では、少なくともいまだ交通カードが使えない甲府口に関してはワンマン 2輌編成が基本で朝夕にわずかに車掌の乗務する 3 輌編成が入っている程度なのでこういう問題はなくなっていると思われます。まさに歴史の一コマです。

レイルラボから本車の車歴を見てみます。

クモハ115-2008, モハ114-2608, クハ115-2029

1981.6 近畿車輛製造 (静ヌマ) → 1986.3 静シス → 1987.3 JR東海移管 (静シス) → 2008.4 廃車

 途中、静ヌマから静シスに動くことはありましたが、ずっと身延線御殿場線を離れなかったようです。車令 27 年で廃車になってしまっていますがちょっと早すぎるような気がします。もっと活躍してほしかったところですが...

沼津区にいた牽引車クモヤ22202 (蔵出し画像)

 本日は2/2ということで 2 の数字が連続する車輛を紹介します。しかも最初に製造されてから今年で100年目です。

 こちらは沼津機関区に牽引車として在籍していた クモヤ22202 です。といってもクモニ13 を改番しただけで外観上は全くオリジナルのクモニ13と区別がつきません。もともとは木造であったクモニを鋼体化した車輛です。

 因みにこの車の次位にいるのは、やはり牽引車代用として使われていた クモハ12001 です。

クモヤ22202 (静ヌマ) 1977.5 沼津機関区

本車の車歴です。

1924年 日本車輛製造 (モニ13021) 大ミハ → 1953.6.1 改番 (モニ3417) → 1953.10.21 日本車輛東京支店 改造 (クモニ13034) → 1956.3.1 大タツ → 1957.9.30 大ミハ → 1957.11.6 静トヨ → 1968.10.25 静ヌマ → 1970.2.5 改番 (クモヤ22202) → 1984.6.28 廃車 (静ヌマ)

※車歴データは『関西国電50年』『旧形国電台帳』『鉄道ピクトリアル』誌を参照しています。

 本車は、元々木造の荷物電車として大正13年に製造されました。今年は製造から100周年ということになります。車歴を見ると長らく関西で使われていたことが分かります。戦後鋼体化され、その後も、一時高槻区にいたことはありましたが、基本宮原区に鋼体化前も含めると、30年以上ずっといたようです。その後飯田線で10年ほど使われた後、おそらくクモニ83100代の転入のためでしょうか、沼津区に移り、1970年にほぼ荷物車として使われていない実態に合わせてクモヤ22に改番 (名目上は浜松工場で改造) されたようです。その後は、沼津区の戦前型旧形国電廃止後もしばらく生き残って、アコモ改造車 62系の廃車に合わせて本車も廃車になったようです。

 

客室内のニス塗りが維持されていた信越線のクハ68056 (蔵出し画像)

 本車も信越線で使用された原形クハ68で、元番号はクハ68019でした。本車に関しては、関西から中央西線電化で名古屋地区に移り、さらに 73系の転入で信越線長野地区に移った車両ですが、名古屋地区のクハ68の多くが客室内ペイント塗りつぶしになっていたのに対し、本車はそれを逃れニス塗りが維持されていた車です。またご覧のように運転台右側窓が H ゴム化はされていませんが、R のついた窓に交換されています。おそらくこれは長野転入時に防寒・隙間風対策として1段窓に交換されたものと思われます。

 なお、本車は奇数向きですが、本来は偶数向きなのでおそらく長野転属時にトイレなしクハを奇数向きにそろえる目的で方向転換工事を施行したものと思われます。中央西線ではクハ68の方向をそろえることは行われていなかったようです。中央西線入線時に横須賀線で使われていた両支持形の幌にわざわざ取り換えられていたことを考えると (戦後の関西では片支持形)、クハ68同士で増解結することも想定されていたと思われるからです。但し、長野ではクハ68と76の向きは揃えられたのでクハ68同士の連結はなく幌は無用の長物でした。やはり横須賀線で使われていた引き通し線の3線化も中央西線転入時に行われていました。

クハ68056 (長モト) 1977.7 長野

クハ68056 (長モト) 1977.7 長野

 以下は客室内です。

クハ68056 (長モト) 1977.7 長野

本車の車歴です。

1938.9.9 日本車両製造  → 1938.9.23 使用開始 大アカ → 1943.12.14 改造 (クハ55133) → 1948.10 大ヨト → 1948.12.18 座席整備 → 1950.9.29 大アカ → 1953.6.1 改番 (クハ68056) → 1958.3.8 更新修繕I 吹田工 →1966.5.11 名カキ → 1968.8.23 名シン → 1972.3.22 長ナノ → 1974.12.17(?) 長モト → 1978.3.15 廃車 (長モト)

※車歴データは『関西国電50年』『鉄道ピクトリアル』誌『旧形国電ガイド』を参照しています。

 本車は1938年に日本車輛で製造され、戦前は一貫して明石電車区に所属していました。一部は当初宮原にいて、明石電車区開設後移っていますが、本車は最初から明石に配置されていたようです。その後座席撤去を受け、そのためか戦後は淀川区に移っています。1948年に座席整備されていますが、おそらくロングシートで整備されたものと思われます。1950年に京阪神緩行線セミクロスシート復活の方針が出されますが、それを受けてか、明石区に復帰、いつクロスシートへの改造を受けたのかは分かりませんが、1953年の一斉改番でクハ68に戻ります。しかし、元々原形クハ68は偶数車だけだったためか原番復帰にはならず、68056という番号が与えられます。そのまま古巣の明石区配属で活躍していましたが、1966年中央西線 名古屋ー瑞浪電化によって、不足する70系の補充制御車として名古屋地区に移ります。1968年に電化区間が中津川に延長されると、新設の神領区に移ります。さらに中央線名古屋口の混雑激化による73系の転用に伴い、今度は信越線の電機牽引の列車を電車化するため長野地区に移り、そこが最後の活躍の場となりました。

 なお、中央西線名古屋口の残った70系の運用は1978年までありましたので、長野に移った車輛はクハ68を含む比較的古いものだったようです。名古屋に残った70系はトイレ付きだったため主として名古屋ー中津川間の長距離運用に使われた一方、73系はトイレなしのため名古屋ー瑞浪間に限定されていたようです。

 

阪和線にいたクモハ60 トップナンバー クモハ60001 (蔵出し画像)

 2024年新年あけましておめでとうございます。本年もよろしくお願いいたします。

 ところで本日は 1 月 1 日ということでそれにちなんでトップナンバーの車輌をご紹介します。クモハ41を出力強化して、1939年に登場したクモハ60のトップナンバー、クモハ60001 です。ちなみに、40系の一族のうち、比較的後年までトップナンバーが維持されていたのは本車とクハ55001、サハ57001 で、いずれも晩年は阪和線で活躍していました。

 なお本車に関しては確か阪和線の戦前形国電のうち最後まで残った車輌で、私の記憶では確か、阪和線営業運転引退後もしばらく残され、紀勢線電化の際、試験車として使われた経歴があったように思います。

クモハ60001 (天オト) 1976.3 鳳電車区

 残念ながらコンクリート柱がかぶってしまっていますが... 鳳電車区所属の車輛の中では、60006とともに埋め込み式ヘッドライトが特徴で、ノーシル・ノーヘッダーと相まって、遠くからでも本車だとわかる特徴を持っていました。なお、阪和線の半流の戦前製旧形国電は正面の運転台窓両方ともHゴム化されている車輌が多かったように思います。関西の平妻車は正面の運転台窓両方ともHゴム化されているケースが大半でしたが、半流車は、左側はオリジナルで残されている車輌が比較的多かったです。これはおそらく夏の暑さ対策として、通風性のある2段窓を残すという意図によるものと推定されます。しかし、阪和線の場合は、半流車であっても両方とも H ゴム化されている車輌のほうが多数派でした。これはおそらく区間快速運用があり、天王寺ー鳳間を時速 90km 以上でかっ飛ばしていましたので、風圧が高く、そのためではないかと推定します。

クモハ60001 (天オト) 1976.3 鳳電車区

 抵抗器は3基が、70, 73系と同じものに交換されていました。

クモハ60001 (天オト) 他 1976.3 山中渓付近

 山中渓付近をさっそうと駆け抜ける本車です。

クモハ60001 (天オト) 他 1976.3 山中渓付近

では本車の車歴です。

1939.11 日本車輌製造 → 1940.3.30 使用開始 東鉄配属 → (1947.3.1現在東カマ) → 1951.1.23 更新修繕I 大井工 → (1954.9.1現在 東ヒナ) → 1954.11.25 更新修繕II 汽車会社東京支店 → (東ヒナ) → 1966.2.18 大アカ → 1967.5.19 天オト → 1978.8.11 廃車 (天オト)

 本車はモハ41 を MT-30 に出力強化したモハ60 のトップナンバーとして1939年に製造されました。1947年には京浜東北線にいましたので、おそらく当初から蒲田電車区に配置されていたものと推定されます。しかし、1950年前後の京浜東北線からの 20m 3扉車排除の方針を受け横浜線に移ります。ひょっとするとそれも、トップナンバーであることですし、当初配置の京浜東北線からほど近いところへという配慮があったのかもしれません。おそらく1951年の更新修繕を契機に移った可能性が高いと思います。

 その後長らく横浜線で活躍した後、73系に押し出されて関西に移ります。当初は京阪神緩行線で使われましたが程なく阪和線に移り、社形電車を置き換えました。そして上で述べたように、事業用車を除いては鳳電車区に最も最後まで残った戦前製国電となりました。

常磐線 増解結用に改造されたクハ55 のトップナンバー クハ55300 (蔵出し画像)

 今でも強く感じられることですが、首都圏と関西圏では人口規模が大きく異なります。そのため、40系の中間付随車であるサハ57は首都圏のみに新製投入されました。1950年前後に首都圏の混雑のひどい国電区間は基本的に20m 4扉車 (および一部 17m 3扉車) に統一され、20m 3扉車の多くは関西圏に転属させられますが、首都圏でもそこまで混雑のひどくなかった常磐線総武線横浜線、(一部横須賀線) にはロングシートの20m 3扉車が残されました。

 そのうち、サハ57 は関西では使いにくいと思われたのか、基本的に関東に残り、特に関東 20m 3扉車の牙城であった松戸電車区には、1956年の時点でサハ57が33輌も集結していました。ただ、戦後混乱期も過ぎると乗客数も徐々に落ち着きを取り戻し、常磐線では日中の輸送力が過剰な状態になったことから、朝と日中で増解結をすることで輸送力の調節を行うことになりました。これによりサハ57 をクハ55に改造したのがクハ55300代です。

 本車を含むグループは、1959年に最初に改造されたグループで、正面貫通路は客用引き戸貫通路扉をそのまま転用するという手抜き工事でしたが、おそらく最初は、朝には中間車として使用し、幌を使うだろうということで、経費節減も含めそうなったのではないでしょうか。本車はそのトップナンバー偶数車で、55300~319 (但し 318を除く) が本グループに相当します。奇数車 10輌、偶数車 9輌とほぼ同数作られたのも、55300代同士で分割併合することが考えられていたのではないかと推定されます。

 しかし、しかし、後の改造車は運転台をちゃんと作り直すようになります。引き戸のままだと、編成のトップで使用した時に隙間風の入り込みが開き戸よりすごいはずですし、冬場には乗務員は寒い思いをしたと思われますので、かなり苦情があって方針変更を迫られたのではないでしょうか。のちに前面扉を完全封鎖し、隙間風対策を施した車輛が大半だったのではないかと思われます。その結果、身延線に行った同僚は幌枠まで取り外され、運転台窓が H ゴム化されたこともあって、かなり締まりのない顔になってしまいました。

 クモハ12 も改造時に客用引き戸をそのまま運転台に使っていた車両もありましたが、鶴見線で活躍した 052, 053 など改造時に半室運転台だったものもありました。半室運転台なら、直接貫通路扉から隙間風が運転台に入り込むことがなかったのでさほど問題にならなかったと思います。また、引き戸転用のまま全室運転台として改造された車両の場合でも、増設側運転台はあくまで補助的で、たまに使う、あるいは入れ替え時に使う程度という位置づけであったならば、問題にならなかったのではないでしょうか。結局問題になるのは、客用引き戸転用の全室運転台を本格運用に使う場合だったのです。

 写真を撮ったのは最晩年の片町線時代です。

クハ55300 (大ヨト) 1976.3 鴫野

クハ55300 (大ヨト) 1976.3 鴫野

クハ55300 (大ヨト) 1976.3 鴫野

クハ55300 (大ヨト) 1976.3 鴫野

本車の車歴です。

1941.9.20 新潟鐵工所製造 (サハ57026) 東鉄配属 → (1947.3.1 現在 東モセ) → 1951.5.4 更新修繕I 大宮工 → (1954.9.1 現在 東ヒナ) → 1955.3 東マト → 1956.6.19 更新修繕II 大宮工 → 1959.11.6 改造 大船工 (クハ55300) → 1963.9.16 東ツヌ → 1964.6.17 東ナハ(→西ナハ) → 1969.3.20 大ヨト → 1976.4.20 廃車 (大ヨト)

 本車は戦時中の1941年に新潟鐵工所にてサハ57026として製造されました。配置区は手元の資料では不明ですが、1947年時点で東モセにいますので、おそらく京浜東北線用として新製配置された可能性が高いと思います。しかし、1950年前後 (おそらく更新修繕を契機に?) 横浜線に移り、さらに、首都圏最大の20m 3扉車の拠点、常磐線に移動します。クハ改造後はしばらく常磐線で使われましたが、その後総武線に移動、まもなく 17m 車淘汰のため南武線に移動します。5年ほど使われた後、73系に追われ関東を後にして、大阪は、片町線にやってきます。片町線では運転台窓両サイドが H ゴム化されましたが、なぜか関西型通風器は設置されないままでした。そこで7年間働いたのち、新性能化で廃車となりました。