省型旧形国電の残影を求めて

戦前型旧形国電および鉄道と変褪色フィルム写真を中心とした写真補正編集の話題を扱います。他のサイトでは得られない、筆者独自開発の写真補正ツールや補正技法についても情報提供しています。写真補正技法への質問はコメント欄へどうぞ

McMTc'Tc という変な編成だった身延線の 115系 クモハ115-2008他 (蔵出し画像)

 今回は、旧形国電ではなく身延線に新製配置された頃のピカピカの 115系の写真です。といっても身延線115系もすでに過去帳入りとなっています。赤色2号、ワインレッドカラーの 115系です。

 冷房装置は、都市部では設置が進んでいまいたが、本車は閑散区間用の為準備工事のみ行われていました。また今は常識となっている側面の方向表示器も準備工事のみで、サボが使用されていました。

クハ115-2029 (静ヌマ) 1981.6 富士電車区

クモハ115-2008 (静ヌマ) 1981.6 富士電車区

モハ114-2608 (静ヌマ) 1981.6 富士電車区

 パンタグラフのあるモハ 114 は、身延線のトンネル断面が他の山用区間よりさらに低いため、山用の折り畳み高さの低いパンタグラフ PS-23 を使っているにもかかわらずさらに低屋根化する必要があり、2600代となっています。なお JR 東海になってから新たに設計された車輛は身延線入線可能な車輛限界を採用しているはずです。

クモハ115-2008 (静ヌマ)他 1981.6 富士電車区

 ところで、上のクハ115の写真を見て、おやっと思いませんか? クハ115-2029の後ろにつながっているのは電動車ではありません。トイレが見えていることからクハ115であることが分かります。つまり McMTc'Tc という編成なのです。クハ115がおしりを突き合わせてつながっているなんて変でしょう? 普通はトイレの位置を等間隔にすることから、つなぐなら Tc'McMTc にするところです。

 新製配置で配給の都合で一時的にこうしているのではなく、実際この編成で営業運転に入っています。なぜこんな変な編成なのでしょう。

 これは一つは、モータリゼーションによって乗客数が減っていたので、いずれ4両編成はなくなり、3輌で運転するであろうことから、Tc の1輌はいずれどこかに転用する予定で作っていたことが一つの理由でしょう。

 もう一つの理由は身延線の運用の在り方にあります。当時の身延線の旧形国電は、4輌、2輌の運用になっていました。そして4輌運用は McTMcTc もしくは McTcMcTc で組まれており、この McTMcTc の中間の  Mc にはクモハ51850 代が充てられ (アコモ改善車導入前はクモハ43800代も) めったに先頭に立つことがなかったのは、当時のファンならご存じのことかと思います。

 実はこの中間のクモハ、乗務員にとっては非常に便利な存在でした。というのは身延線無人駅が多く、運行中車掌は車内補充券を発券するのに大忙しでした。その上身延線は元私鉄のため、結構駅間隔が短くなっていました。ということは駅が近くなってドアの開閉扱いを行うたびに、車内補充券の発券を終えて最後部車両まで移動しなければならないとなるとかなり大変です。

 そのため、中間に入ったクモハの運転台からドアの開閉扱いを行うことが頻繁にありました。それにはクモハ51850代の存在は非常に便利だったのです。おそらく安全確認面でも最後部から確認するよりは中間から確認した方がやりやすいはずです。ところが、クモハ43800代などと入れ替えでやってきた 72 系改造アコモ改善車は TcMM'Tc で作られてしまいました。これは、電車を作る側からすればごくごくノーマルな発想です。しかしこのためアコモ改善車が運用に就くと、車掌は駅が近づくたびに常に最後尾まで飛んでいかなければならなくなりました。

 そのため乗務員、特に車掌からはアコモ改善車はかなり嫌われたのではないでしょうか。おそらく乗務員からかなり苦情が寄せられて、115系が配置された際には、 McMTc'Tc という編成にして、車掌が常に最後尾まで飛んでいかなくても済むようにしたのではないかと思われます。また当時は McMc' で作るとか (後に短編成化改造で生まれましたが)、旅客用に 1M方式の電動車を用意するという発想もなかったと思います。荷物車には 1M方式の新性能電動車がありましたので、技術的に無理だったわけではないと思いますが。ちなみに以前記事で紹介しましたが、韓国鉄道公社では中間車にもドア開閉スイッチを設けるとともに車掌に運転士と連絡するためのトランシーバーを持たせて、運転台に戻らなくてもドア開閉作業を可能にしています。

 現在の身延線では、少なくともいまだ交通カードが使えない甲府口に関してはワンマン 2輌編成が基本で朝夕にわずかに車掌の乗務する 3 輌編成が入っている程度なのでこういう問題はなくなっていると思われます。まさに歴史の一コマです。

レイルラボから本車の車歴を見てみます。

クモハ115-2008, モハ114-2608, クハ115-2029

1981.6 近畿車輛製造 (静ヌマ) → 1986.3 静シス → 1987.3 JR東海移管 (静シス) → 2008.4 廃車

 途中、静ヌマから静シスに動くことはありましたが、ずっと身延線御殿場線を離れなかったようです。車令 27 年で廃車になってしまっていますがちょっと早すぎるような気がします。もっと活躍してほしかったところですが...