省型旧形国電の残影を求めて

戦前型旧形国電および鉄道と変褪色フィルム写真を中心とした写真補正編集の話題を扱います。他のサイトでは得られない、筆者独自開発の写真補正ツールや補正技法についても情報提供しています。写真補正技法への質問はコメント欄へどうぞ

春の福塩線、長閑に走る青色20号の旧型国電三連 (1977年3月) - 蔵出し画像


 先日福塩線のクモハ51067の写真を掲示いたしましたが、同時期に撮った、菜の花をバックに春の福塩線を長閑に行く旧国三連の写真です。1977年のちょうどほぼ今の季節でした。

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福塩線 備後本庄-横尾間 (1977.3.29)

 当時から福塩線沿線は結構家や工場が立ち並んでいて、家や工場が入らない撮影場所としてはほぼこの付近に限定されていたと思います。菜の花をバックに長閑に走る福塩線らしい写真が撮れたと思っています。

 因みにこの編成は三連ですが、当時福塩線を担当していた府中電車区の運用は、クハ68+クモハ51のTcMcの基本運用と、片運転台のクモハ51単独のMc付属運用があり、輸送量に応じてきめ細かく、基本x2連、基本単独、基本+付属 の2~4連で調整され運用されていました。なんと1Tcという運用までありました。もちろん1Mcの運用と組み合わされ2連で運用されたわけですが。合理化の進んだ今日では考えられない運用だと思います。

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1976.7改正 福塩線運用表

 なお、運用表は当時の府中電車区に問い合わせの手紙を書いていただいたものです。当時の国鉄の現場は、やはり国民の鉄道という意識を一人一人の職員の方が持っていらっしゃったためか、ファンの問い合わせにとても丁寧に対応していただいたと思います。当時の国鉄労働者の皆様に改めて感謝の意を表したいと思います。

 今は、国民の鉄道ではなく、私企業になってしまいましたし、労働強化も進められ、現場の職員の方々も到底ファンに丁寧に対応する余裕などとてもないでしょう。
 因みに車号ですが、当時のメモや、写真の形状から推測すると、おそらく 福山方(右側)からクモハ51037+クモハ51062+クハ68072の編成だと思われます。クモハ51037は運行灯窓までHゴム化されていたのが特徴で、その特徴はこの写真でも確認できます。

 最後に例によって車歴を紹介して終わりたいと思います。

クモハ51037

1937.2.9 川崎車両製造 → 1937.5.3 使用開始 配置大ヨト → 1937.8 大ミハ → 1937.10 大アカ → 1944.7.11 座席撤去 → 1953.12.13 座席整備 → 1954.8.19 更新修繕I 吹田工 → 1954.11.23 大ミハ → 1956.3.1 大タツ → 1969.9.28 岡オカ →  1974.3.17 岡フチ → 1978.2.28 廃車 (岡フチ)

クモハ51062

1932.12.3 汽車会社東京支店製造 (モハ41002) → 1932.12.21 使用開始 配置大ヨト → 1944.5.3 改造吹田工(モハ51059) → 1944.5.4 大ミハ → 1944.7.26 改番 (モハ51062) → 1945.1.19 座席撤去 → 1948.5.28 大アカ → 1948.12.13 座席整備 → 1950.9.25 更新修繕I 吹田工 → 1957.2.8 更新修繕II 吹田工 → 1961.9.11 岡オカ → 1963.11.2 大アカ → 1964.10.1 大タツ → 1974.2.9 岡フチ → 1977.8.25 廃車 (岡フチ)

クハ68072

1934.4.25 日本車両製造 (クハ55101→55021) 新製配置 東マト → 1950.7.23 大ミハ → 1951.8.3 更新修繕I 吹田工 → 1953.6.1 改番 (クハ68072) → 1956.3.1 大タツ → 1971.1.19 岡オカ → 1971.1.28 岡フチ → 1977.9.26 廃車 (岡フチ)

 

クモハ51037 は生粋の関西生まれで終生近畿圏を離れませんでした。使用開始時は大ヨト配置になっていた点がちょっと異例です。おそらく京阪神緩行線の電車増発等の都合ではないかと推測されます。1969年に岡鉄に移動し、岡山周辺を担当していましたが、5年後福塩線に転じ、そこで廃車を迎えています。典型的な関西国電の経歴のように思われます。なお、本車は 1951.3.1 に西明石にて火災事故を起こしています。窓の徹底的なHゴム化が行われていたのはその影響かもしれません。

クモハ51062はもともとは関西国鉄初の電車モハ41002として城東線、片町線用として配置されました。国鉄初の20m級電動車でした。但し生まれは関東です。戦時中に43系の4扉化改造計画との関連で、台車の振り替えが行われモハ51に編入され京阪神緩行線に移っています。一旦は059になるもののすぐ062に改番されています。モハ41は車番にかかわらず前者奇数向きで製造されたので、あるいは偶数向きに改造されたのかもしれませんが、はっきりしたことは不明です。その後1961年にいったん岡山に追いやられるものの、再び京阪神間に舞い戻っています。1974年に福塩線に転じ、3年使用されて廃車となりました。

クハ68072は元々関東向けのクハ55でした。当初関東向けの40系は引き通し線の違いから100番台を名乗る予定でしたが、結局通し番号に改められています。電化されたばかりの常磐線用として松戸電車区に配置されました。本車は常磐線配置が幸いしたのか戦時中でも座席撤去されることなく使用されましたが、1950年に大阪に移っています。これはおそらくモハ43一党の横須賀線転用との交換で大阪に移ったものと思われます。手持ちの資料でははっきり分かりませんが、1951年の更新修繕でロングシートからセミクロスシートに改造されたものと推測されます。そのため、1953年の改番でクハ68に編入されました。1971年に福塩線に移り、1977年に廃車となっています。