省型旧形国電の残影を求めて

戦前型旧形国電および鉄道と変褪色フィルム写真を中心とした写真補正編集の話題を扱います。他のサイトでは得られない、筆者独自開発の写真補正ツールや補正技法についても情報提供しています。写真補正技法への質問はコメント欄へどうぞ

再々補正画像 岡山運転区にいた クモハ51003

 この写真は、当ブログの発足当初に補正画像を掲載しましたし、また当ブログの前身ブログでも掲載していますので、三度目の掲載です。先日クモハ11117を再補正しましたが、この写真も再補正してみます。やはり、この二年半の黄変補正ツール・技術の進歩を反映して、補正が良くなりました。

クモハ51003 (岡オカ) 1975.8 岡山駅

 上の写真が今回新規に補正をやり直した写真です。かなり色彩がナチュラルになっていると思います。自己採点でも90点はつけられると思います。

 そして、下記は2年半前に行った補正の再掲載です。

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 当時 Bチャンネル再建法を開発したばかりで、黄色味を消すのに手いっぱいで、マゼンタ被りの除去まで考えが及ばなかったためこのようになっています。空を中心に、全般的にかなりマゼンタに寄っています。また黄変の除去も不十分です。今でしたら50点以下の出来です。

 そして補正前のオリジナルです。

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補正前

 当然黄変しています。

 

 では、本車に関する説明です。前身ブログに書いていた記事を補訂したものです。

 私が撮影できたクモハ51の中ではもっとも若番であるクモハ51003です。ただ岡オカにはクモハ51のトップナンバーも当時いたようですが、撮影当時はそんなことはつゆ知らず... 知っていたらもっと粘ったのに...

 なお、山陽線岡山付近が電化されたのはWikipediaの記述を見ますと、1960.10.1上郡-倉敷間電化、さらに1961.9.6に倉敷-三原間電化となっています。『鉄道ピクトリアル』のバックナンバーを追っていきますと、岡山ローカルに旧国が投入されたのはまずこの60年の倉敷電化の時からで、60年の9月末にはクモハ51やクハ68の第一陣が大阪から岡山に移動しています。意外なのはこの時、73系等4扉車両も岡山に投入されています。当時の京阪神緩行線の車両イメージそのまま岡山に展開していたようです。後に淀川電車区の主となるクモハ32001もこのとき高槻から岡山に移動しています。
 そして、電化第2陣の三原電化の際、61年の8月末~9月初めに掛けてクモハ51やクハ68の第二陣が大阪圏から移動していますが本車やクモハ51001、それに後に府中に移るクモハ32000等4扉車もこの時岡山に移動しました。
 また63年には首都圏からクモハ41や17m車も岡山に移動しています。ただ、クモハ41は岡山では不評だったらしく、数ヶ月で淀川に転出しています。またこの時一部4扉車も大阪圏に戻されています。
 また、2扉のサハは64年に移動しており、この時追加のクモハ51も大阪や横須賀線から移動してきています。また3扉のサハは66年に首都圏から (一部は一旦大阪圏を経由して) 転入してきており、この時残りの4扉車は大阪圏に転出。クハ68は主に71,2年に飯田線福塩線に転出しています。

 この写真を撮影したのは75年3月でしたが、この当時は編成はMcTTMcに統一され、Mcはクモハ51に統一されており、主として宇野、赤穂線 (播州赤穂以西)、山陽線三石-岡山間ローカルに運用されていました。

 この戦前型旧国の運用が終了したのは、『旧型国電ガイド』(ジェー・アール・アール刊行)によりますと76年6月30日です。小山区から115系の転入を受けて廃止になりました。なおこの時捻出された一部クモハ51は福塩線に転用され、福塩線のクモハ41を置換えています。ただこの時岡オカから岡フチに車両がいつ移動したかは、『鉄道ピクトリアル』『鉄道ファン』とも情報が欠落しており、正確な日取りが分かりませんが、'76.6~7頃であることは間違いないと思われます。

 

では、本車の車歴です。

1936.3.10日本車輌製造 (モハ51003 東ミツ)→1943.12.16改造・座席撤去 (モハ41058 大井工)→(?)東モセ→1950.9.17大ミハ→1951.6.16座席復旧→1951.8.20更新修繕I(吹田工)→1952.4.28 (or 5.21)改造 (モハ51003 吹田工)→1956.3.1大タツ→1958.10.22更新修繕II(吹田工)→1961.9.11岡オカ→1976.10.14廃車

 本車は中央線ハイキング列車用に製造されたクモハ51のトップグループです。番号は奇数ですが、偶数向きとなっています。これは、中央線用クモハ51は浅川 (高尾) 向き(偶数向き)で統一されていたためです。但し、戦前東鉄では床下機器配置に偶数奇数の違いはなく、関西転出後も床下機器の配置変更は行われませんでしたので、奇数車と同じでした。
 新製配置で三鷹電車区に配属されたはずですが、戦時中に下十条に移動し (移動時期不明) そこから、戦後モハ42グループと交換で宮原に移動しています。また戦時中は座席撤去で一時クモハ41に改番されていましたが、戦後復旧され元番号に戻っています。そして上で触れたように岡山電化第二陣で高槻から岡山に移動し、岡山ローカル旧国運用廃止で廃車となりました。全検は岡山時代も含め吹田工場で受けていましたので、基本は関西型の改造を受けていました。

 なお、関西の旧形国電は1960年代に運転台窓がHゴム化されています。しかしクモハ51の第2次車からは、原則、助手席側の窓はHゴム化されませんでしたが、なぜか本車を含む第1次車はことごとく助手席側の窓も含めHゴム化されています。さらにご丁寧にも運行灯窓もHゴム化 & 3桁化されています。

 運転台左側の窓がHゴム化されずに残った車両があった理由はおそらく、運転台助手席側の2段窓を残すということにあったと考えられます。これは1934年以降製造された電車の助手席側の窓は、おそらく運転台の夏の暑さ対策の理由で、2段窓になっており、それを維持するためだったと考えられます。これは2段窓が採用されていなかった平妻車がことごとく両側の窓ともHゴム化されていたことから推測できます。

 しかしクモハ51の第1次車は、2段窓であったはずなのに、ことごとく助手席側窓もHゴム化されています。この理由はよく分かりませんが、次の2つの可能性が考えられます。1つの可能性は、Hゴム化が車令が高い車両から順次施行されたところ、クモハ51の第1次車への施行が終わったところで、現場から、夏は暑いので、2段窓を潰さないでほしいとの要望が出て中止になった、という可能性。ついでに、作業工程が複雑そうな半流の前面の突き出たHゴム運行灯化による3桁化も、関西ではいらないと、以後省略されたのではないでしょうか。もう一つは第1次車はもともと半室運転台だったので、運転士への暑さの影響を考慮せずそのままHゴム化してしまった可能性です。これは1934年製の平妻車も助手席側は2段窓だったのに (但し半室運転台) Hゴム化されたことからの推測です。ただ、第1次車は後に全車全室運転台に改造されています。はたしてHゴム化が先だったのか、全室運転台化が先だったのかがよくわかりません。全室運転台化が先だとすると2番目の仮説は成り立ちません。

 真相をご存じの方からコメントを頂けるとありがたいです。

 

データ出所:『関西国電50年』