省型旧形国電の残影を求めて

戦前型旧形国電および鉄道と変褪色フィルム写真を中心とした写真補正編集の話題を扱います。他のサイトでは得られない、筆者独自開発の写真補正ツールや補正技法についても情報提供しています。写真補正技法への質問はコメント欄へどうぞ

阪和線の日常を支えていた普通のクモハ60 クモハ60053 (蔵出し画像)

 こちらは、1970年前後から新性能化完了まで阪和線の日常を支えていた普通のクモハ60、クモハ60053 です。

 1960年代前半の阪和線では、快速用の70系を除くと、阪和社型のクモハ20、クハ25が主流でした。例えば 1961年の鳳電車区の配置輌数を見ると、モハ70、 クハ76が20輌ずつ、そしてクモハ20が38輌、クハ25が30輌、クモハ61が2輌、クモハ51が1輌、クハ16が7輌、クモニ13が2輌という陣容となっていました。国鉄制式車は、すべて MT-30 もしくは MT-40 で統一されています。クモハ51 がありますが、これは MT-30 に換装されたにもかかわらず 54 に改番されなかった元モハ42 3扉改造車です*1

 一時、モハ52 や 合いの子43 (→ 53) などが出入りしたことがありましたが、それらは 70系に置き換えられています。その際の唯一の置き土産が出力強化されたクモハ51だったわけです。なお、天オトの70系は大半が新製配置車で、一部のみ京阪神緩行線から来た車でした。福塩線に最後まで残った70系は、いずれもここにいた車で、横須賀線にいた経歴のある車はありません。クモハ61 の2輌は、おそらく70系の予備車兼牽引車の役割を兼ねていたものと思われます。クモハ61は一時阪和線に全車集結していたことがありますが、70系が投入されると、5輌も定員の少ない両運転車は不要と思われたのか、3 輌は、関東に出されたりして、最終的に飯田線に集結し、旧形国電最後の日まで重宝されました。

 阪和形クモハ20, 25 は、電動車に関しては、MT-40より強力な東洋電機製のモーターを装備していましたが、全長が約 19m と国鉄の 20m 車よりやや全長が短かったため、20m車の仲間ではなく、17m 車の仲間として扱われていました。そのためクハ25の不足分は、不本意にも関東からクハ16を迎え入れることになってしまいました。

 しかし、1960年代後半から国鉄は旧性能電車の新性能電車置換計画を立てることになります。その際、置換の順番は、1) 17m 車、2) モハ63系を改造した戦時設計車、3) クモハ40, 41, 42 等の戦前雑型車 4) クモハ51, 52, クハ55等の戦前標準車 とされていました*2。戦前雑型車と戦前標準車の違いはよく分かりませんが、おそらく MT-15 を備えていて、かつセミクロスシート車でないもの、ということかと思われます。

 そのため、旧性能車の置き換えの最初の対象の一つとして、クモハ20, 25 がその対象となりました。その置換の代替として1965 から 67 年にかけて大量に流入したのが、主として常磐線を牙城としていた関東の3扉車、クモハ60 およびクハ55 でした。本車はその初期に阪和線にやってきた一両です。

 いわば1960年代後半から、阪和線の旧性能車時代の最後の日常を阪和形に代わって地道に支える存在であったわけです。

 前面運転台窓こそ両方とも H ゴム化され、関西型通風器も設置されていましたが、関東では、1970年前後に一掃されてしまった PS-11 を最後まで備えていました。

クモハ60053 (天オト) 1976.3 鳳

クモハ60053 (天オト) 1976.3 鳳

 抵抗器は原形のままです。

クモハ60053 (天オト) 1976.3 鳳

本車の車歴です。

1941.10.2 田中車輛製造 東鉄配属 → (1947.3.1 現在) 東モセ → 1953.10.23 更新修繕I 東急車両 → (1954.11.1 現在) 東マト → 1965.5.21 天オト → 1976.4.27 廃車 (天オト)

 本車は関西の田中車輛 (現近畿車両) で製造され東鉄に配属されました。1947年現在下十条にいます。この当時の配置表を見ると下十条区には 60048 ~ 065 が揃っていますので、当初から下十条に配備され京浜線で任に当たっていた可能性が高いです。また下十条区は一時山手線の運用も一部担当していたこともあったようなので、山手線でも使われた可能性があります。

 しかし、1950年頃の63形の増備による京浜線4扉車統一で、常磐線に転出したものと推定されます。その後関東のクモハ60の牙城常磐線で、25年ほど活躍した後、常磐線新性能化が始まる2年ほど前の1965年に阪和線に転出します。24年ぶりの故郷への帰還となりました。おそらく他線区の新性能化で73系が転入し押し出される形で、社形国電淘汰のため阪和線に転出したものと思われます。その後阪和線の新性能化まで活躍しました。

*1:以下の記事を参照。

yasuo-ssi.hatenablog.com

*2:「ローカル国電の体質と運用について」国鉄運転局車務課 藤原澄昭 『鉄道ピクトリアル』1972年5月号