さて、本日ご紹介するのは、クモハ40を中間電動車化したモハ30です。但しトップナンバーは30000だったので、本車は2番目に若い番号となります。浅原信彦さんが書かれた国鉄電車ガイドブック 旧性能電車編(上) によりますと、1953年に桜木町事件対策として中間電動車化されることとなった、とあります。かつて関東の国電は、関西とは異なり、貫通路はあっても幌がなく(但し横須賀線を除く)、乗客が貫通路を通って車両を移動することが想定されていませんでした。関東の国電は関西の国電に比べ、乗客に対するアコモデーションがおろそかで数さえ収容できれば良いという発想だったことは、現在のJRでも変わりません。それもあって、桜木町事件で安普請のモハ63は、ドアコックもなく、窓も全開できない構造でしたので (窓が開かず、側板もベコベコの安普請というのもJR時代になって209系がその衣鉢を継いでいます)、多くの乗客が車両から逃げることができず、蒸し焼きになる惨状となりました。そのため中間電動車化して幌をつけ、車両になにか事故があったら貫通路を通して乗客が隣の車両に逃げられるようにする、という趣旨だったのではないかと思います。
ただ、地方転出の際は短編成化する必要があるため、中間電動車化してしまうとかえって不便です。そのため改造は6両にとどまったようです。首都圏で使われた後、高崎地区と大阪の片町線に別れて使われました。本車は、高崎地区の客車列車を電車化するために高シマに転属しました。当時の鉄道雑誌を見ますと、転属当初はクロスシートだった客車に対し、ロングシートのためあまり乗客からは好評を得られなかったようです。本車は、高崎ー横川間のローカルに限定して使われ、Tgc+M+Mc の中間に挟まれて使われましたが、この写真を撮った後、1975年末ごろに高崎-横川ローカルは一足先に115系化され(おそらく手荷物扱い量の減少が原因?)、他の高崎地区の旧型国電より一足早く姿を消してしまいました。滑り込みセーフで何とかその姿を記録することができました。旧型国電を置き換えたその高崎地区の115系も今はありません。因みに3扉ロングシートというコンセプトは、のちの107系に受け継がれました。なお、片町線に移った車両は1972~3年に掛けて廃車になったようです。
以下の写真の撮影日は1975.10.10です。両サイドの写真をお見せします。
ところでこの写真以前以下のサイトに掲載しました。
こちらのサイトに掲載しているサイトの写真と比べると、同じ写真ですが、カラーが大幅に補正されていると思います。前の写真は暗部が完全につぶれていたり、全般にマゼンタがかっていたりしました。今回新しい写真補正ツールを作成して、写真を補正してみました。近くその補正ツールも公開したいと思います。
さて、最後は例によって本車の車歴です。
1934.3.17 汽車会社東京支店製造 東鉄配属 (モハ40101)→ 1936.4.1改番 (モハ40021) → ... 1953.6.8 大井工場改造 (モハ30001) → 1955.6 東チタ (←東ヒナより) → 1956.12 東マト → → 1963.9.22 高シマ → 1976.1.5 廃車 (高シマ)
モハ40は最初に関西に配属され、その後関東にも配置されましたが、関東配属グループは引き通し線の違いから100番台を名乗っていました。本車もその関東グループの1両です。のちに連番に改められます。1954年の電車配置表を見ると、30000 と共に東ヒナ所属になっていますので、中間電動車改造時に東ヒナに配属されたのではないかと思います。1954年の配置表を見る限り、おそらく、モハ30は、改造後、横浜線、常磐線(東マト)、総武線(千ツヌ)に2両ずつ配置されたようです。1955年に東チタに移動しますが、横須賀線の一時的電動車不足を補うため、配置されたようです*1。モハ70の増備により、すぐ常磐線に移動しますが、新前橋に移る前は鉄道雑誌の情報によると、東ナハにいたとあります。ただいつ常磐線から南武線に移ったのかは、鉄道雑誌には載っていませんでした。当時の東ナハは17m車で揃っていたのではないかと思いますので、誤記の可能性が大です。手書きにするとマトをナハに読み間違える可能性はあると思いますので雑誌編集の際に誤ったのではないでしょうか。少なくとも1961年にはモハ30は東マトに全車集結していました。その後高崎地区と片町線に東西泣き別れで転出していきました。
*1:以下のページに、東チタ時代のモハ30001の写真が掲載されています。
金子元昭氏 「旧形国電40系車両写真選集」
http://tetosa1970.g1.xrea.com/kyuugata40gata.pdf
なお、この写真を見るとPS-11ではなく、PS-2を載せていたのが分かります。