省型旧形国電の残影を求めて

戦前型旧形国電および鉄道と変褪色フィルム写真を中心とした写真補正編集の話題を扱います。他のサイトでは得られない、筆者独自開発の写真補正ツールや補正技法についても情報提供しています。写真補正技法への質問はコメント欄へどうぞ

横浜線から高崎地区にやってきたクモハ60010 (高シマ) - 蔵出し画像

  さて今回ご紹介する車両は、高崎近郊で使われたクモハ60010です。1939年度に登場した準戦時設計の国電で、資材節約のためリベットを廃止して電気溶接で組み立て、ノーシルノーヘッダーの美しい姿で登場しました。登場時は張り上げ屋根は維持されていたはずです。国家総動員態勢が敷かれる中、朝夕の通勤需要の急増を受けて、従来のMT15から出力を上げた電動機MT30を採用しています。なお、1940年度発注車からはウィンドシル、ヘッダーは元に戻されるとともに張り上げ屋根も廃止となり、平凡な姿になりました。

  本車は長らく横浜線で活躍したのち高崎地区に移ってきて、吾妻線両毛線で使われました。両毛線は70系が主力で、40系は、70への増結用途が中心だったと思います。2番目の写真は、両毛線から70系の増結としてやってきて、新前橋で切り離して、サボを入れ替えた直後の写真です。吾妻線は4連の70系の入線もありましたが、主力は40系のMcTcもしくはMcTcMcTc編成でした。吾妻線は勾配はきついですが、閑散だったので、そこまでの出力は必要ないと考えられていたのでしょう。なお、新前橋区には、40系の運用として、信越線高崎-横川間もありましたが、そちらはクモハ40を中間電動車化したモハ30を含むMcMTgcという編成で2M1T構成でしたので、出力の大きいクモハ60が入ることはほとんどなく、基本はクモハ41が充当されていたと思います。

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クモハ60010 (高シマ)
1977.5 高崎

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クモハ60010 (高シマ)
1975.10 新前橋
 両毛線の増結運用で新前橋に来て切り離され、
次の運用に向けて行き先板を吾妻線向けに交換したところ

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クモハ60010 正面
1977.5 大前

 

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パンタ側妻面 右はクハ55431
1977.5 高崎

 こちらは、 パンタ側妻面です。全検は51-8 大井工になっていました。パンタグラフは灰色に塗られていたことが分かります。

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クモハ60010 室内
1977.5 高崎

 そしてこちらは客室内です。新前橋の旧国で車内がペイント塗がされていた車両は、大半がクリーム色に塗られていましたが、本車はなぜか他の首都圏車と同じくモスグリーンでした。何らかの手違いからでしょうか? あるいは手元の写真、およびメモを見る限り、室内がクリーム色に塗られていたのは便所つきクハ55ばかりですので、便所付き車両と区別するために、横浜線時代からのモスグリーンがそのまま維持されていた可能性もあります。これについては真相は分かりません。

 

最後に本車の車歴です。

1940.3.30 日本車両製造 東鉄配属 → (1947.3現在 東カマ) → (1954.9現在 東ヒナ → 南ヒナ) → 1970.10.8 高シマ → 1978.6.28 廃車 (高シマ)

 1940年に日本車両で製造され東鉄に配属されました。1947年には蒲田電車区にいますので、おそらく配属以来蒲田で京浜東北線を担当していたものと思われます。その後1954年の配置表では東神奈川に移っていますので、おそらく1950年前後にモハ63に押されて横浜線に移ったものと推定されます。1951年の桜木町事件に見るように、京浜東北線にはモハ63が重点的に投入され、なるべく4扉車で統一する方向だったと思われますので(おそらく当時もっとも首都圏で混雑が深刻?)、それで東神奈川に押しやられたのではないでしょうか。そういえば平成の63、209系も京浜東北線が最初の投入線区でした。首都圏では長らく東神奈川区が松戸区に次ぐクモハ60の牙城でした。基本的には蒲田に投入されたモハ60が、4扉のモハ63 → 73一党に追われて移った先が東神奈川だったということかと思います。

 ちなみに話はそれますが、1947年東鉄の電車配置表をみますと、63のシェアが高かったのは、中野、三鷹、松戸で、蒲田にはトップナンバーが配置されていましたが、輌数的には少ない配置でした。それが、1954年には、中野、三鷹の大半が72, 73だったのは変わりませんが、松戸からは63の残党がいなくなり、クモハ60を中心とする3扉車にほぼ統一、一方、京浜東北線を担当していた、蒲田、下十条は、元々連合軍用だったクロハを除くと、大半が72, 73となっていました。混雑度合いや車輌新製の進捗度を勘案して50年代初めに大きく配置が見直されたようです。当初、松戸にかなり63が配置されていたのは、資材不足で整備状態があまり良くない車両を、首都圏の中では比較的閑散な松戸に追いやっていたためではないでしょうか。63の整備が進むにつれ、混雑線区に集中的に63が集められたのではないかと推測します。ちなみに、山手線担当区だった品川、池袋は、72, 73はある程度輌数が配置されていましたが、まだ11, 10といった17m車が過半数を占めていました。

 その後本車は20年ほど横浜線を走り続け、高崎地区に移ったのはやや遅く、1970年でした。おそらく横浜線時代に既に車内はモスグリーンに塗り替えられていたと思われます。そのまま車内のモスグリーンが維持されていたのは、やや遅く高崎に来て活用場所が、長野原線のみならず両毛線にも広がっていたため、敢えて寒冷地向きにクリームに塗りなおされなくても良いと思われたのか、それとも先も述べた通り、便所つきクハはクリーム色に塗り、電動車はモスグリーンのままという区分があったのか... 定かなことは分かりません。