省型旧形国電の残影を求めて

戦前型旧形国電および鉄道と変褪色フィルム写真を中心とした写真補正編集の話題を扱います。他のサイトでは得られない、筆者独自開発の写真補正ツールや補正技法についても情報提供しています。写真補正技法への質問はコメント欄へどうぞ

高崎近郊信越線ローカルで運用されたクハニ67902 (1975.10)

 先日、本車の僚機であるクハニ67900の写真を紹介しましたが、こちらは902です。やはり伊東線用にクハ55から改造されましたが、1964年に伊東線113系化と共に、列車や気動車で運行されていた信越本線高崎-横川区間運転の置き換え用に新前橋に移ってきました。伊東線伊豆急との直通運転が開始後、乗客が大幅に増加し、重要路線として横須賀線と同時に113系が行われました。一方の、高崎-横川間は、1962年の横軽間アプト式廃止と共に電化されたようですが、本車によって置き換えられるまで、依然この間の区間運転は気動車やEF53が牽引する客車列車によって行われていたようです。

 900との違いは、本車は1941年製、末期のクハ55から改造されており、そのためリベットがなく溶接になっていたこと、および最後まで全面窓がHゴム化されていなかった点です。

f:id:yasuo_ssi:20210802095844j:plain

クハニ67902 (高シマ)

f:id:yasuo_ssi:20210802100228j:plain

正面

 

f:id:yasuo_ssi:20210802101110p:plain

床下

f:id:yasuo_ssi:20210802102322j:plain

クハ67902 荷物室

f:id:yasuo_ssi:20210802102658p:plain

クハニ67902 運転台

f:id:yasuo_ssi:20210802102837p:plain

正面連結器周辺

f:id:yasuo_ssi:20210802104223p:plain

客室と荷物室の仕切り部分

 客室は、高崎地区に最初に来た40系だったためか、ニス塗りのまま維持されていました。天井にたばこのヤニがついているのが時代を感じさせます。この当時、国電の天井は全検からしばらくたつとたばこのヤニで黄色っぽくなるのが常態でした。

 因みに、伊東線の旧型国電情報としてこんなものが見つかりました。

detail.chiebukuro.yahoo.co.jp

seesaawiki.jp

 最後は本車の車歴です。

1941.10.25 帝国車両製造 (クハ55088 東鉄配属) → (1947.3現在 東カノ配属) → (1954.11 現在 千ツヌ配属) → 1955.11.12 改造 (東イト) → 1964.2.4 高シマ → 1976.1.5 廃車 (高シマ)

 1941年にクハ55088として製造されたクハ55最末期のタイプで、すべて溶接によって仕上げられたリベットのないタイプです。東鉄に配属されますが、1947年には中野区に配属されていました。しかし1954年の時点で津田沼区に移っています。

 1950~51年にかけて、中央線、京浜東北線は4扉車の集中配備が行われ、20m 3扉車は常磐、総武、横浜線、あるいは関西に移動させられました。これに伴い本車も移動したものと思われます。因みに、17m 車は、連合軍専用車を除き、青梅、南武線などの買収線区に移動していきました。山手線でも20m 3扉車の排除が行われましたが、3扉 17m 車は残り、モハ30は中間車化され、のちのモハ10が大量配備されました。20m 3扉車は混雑の激しい線区では適しないと判断されたようです。

 今日の感覚だと中野区も津田沼区も、同じ中央総武緩行線ではないか、何が違うのか、と思われるかもしれませんが、当時、総武線中央緩行線への乗り入れは行われていたものの、朝夕に限られ、総武線の大半のスジはお茶の水起点となっていました。そして総武線は首都圏の中では比較的閑散な区間とみなされていたようです。

 その後55年に伊東線用に荷物合造車に改造され、総武線を離れます。その後の歩みは、67900と同一です。

 なお、クハニ67900代の偶数番号車はトイレのないタイプで、他にクハ55040から改造された67904が存在しました。この車は改造時は常磐線で使われていましたが、1956年に改造されまもなく青梅線に移動します。おそらく青梅線で使うために荷物合造車として改造されたのでしょう。しかし1962年にふたたび常磐線に戻って、常磐線の新性能化で地方に転出することなく1969年に廃車になっています。1962年の三河島事故でクハニ67007が失われましたので、そのため青梅線から呼び戻されたものと思われます。