省型旧形国電の残影を求めて

戦前型旧形国電および鉄道と変褪色フィルム写真を中心とした写真補正編集の話題を扱います。他のサイトでは得られない、筆者独自開発の写真補正ツールや補正技法についても情報提供しています。写真補正技法への質問はコメント欄へどうぞ

京阪神間を結んだ元クハ58002 身延線クハ47100 (蔵出し画像)

 さて、本車は身延線にいた、かつて京阪神間を結んだ43系の一員であるクハ58の後身、クハ47100番台のトップナンバーです。元々の番号はクハ58002でした。但し幌枠が取り去られ、顔が関東顔になっていた点、運転台正面窓が2枚ともHゴム化されていた点が惜しい点でした。方向も本来は偶数向き(下り向き)だったはずですが、身延線に入って奇数向きに方向転換をしていました。

 身延線には同じ仲間が本車を入れて4両いました(100, 106, 110, 112)。

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クハ47100 (静ヌマ) 1-3位側 1981 富士電車区

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クハ47100 (静ヌマ) 1-3位側 1981 富士電車区

 

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クハ47100 (静ヌマ) 2-4位側 1981 富士電車区

クハ47100 (静ヌマ) 1976.4 富士駅
左 60812, 右 60800

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クハ47100 (右) トイレ部分 1976.4
左はクモハ60812

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クハ47100 (左) 正面部分 1976.4
右はクモハ60800

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クハ47100 客室内 1976.4

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クハ47100 客室内運転台部分 1976.4

 クハ47100の客室ですが、トイレは身延線に転入後設置されました。また運転台は本来は半室運転台だったはずですが、乗務員扉の後ろに仕切りを設け、全室運転台に改造されています。おそらく1957年の更新修繕IIの際に、運転台窓のHゴム化と同時に施行されたものと思われます。因みにクハ47100代でHゴム化されなかった車両は1台もなかった点が残念でした。

 

 最後に本車の車歴です。

1933.11.27 日本車輛製造 (クハ58002) → 1934.7 使用開始 (大ミハ) → 1945.1 座席撤去  → 1948.6 座席整備  → 1949.12.13 更新修繕I 吹田工  → 1950.7.26 東チタ  → (1951頃? 静フシ) → 1952.3.27 便所取付 →1953.6.1 改番 (47100) → 57.12.27 更新修繕II 豊川分工 → 1969.4.11 静ヌマ → 1981.9.8 廃車 (静ヌマ)

 なお、クハ58は製造時は全車偶数方向 (下り向き) でした。本車は明石区に転出することなくずっと宮原区にいましたが、1950年に横須賀線用として上京します。しかし、ほどなく1951年に始まった70系の配備で、元々横須賀線にいたクハ47と連れ立って、東海道線静岡地区ローカル・身延線用として全車富士電車区に移ったようです。モハ32の地方転用に当たり、短編成化によって先頭車不足となるので、クハ58は横須賀線に残されず真っ先に地方転用に充当されたのでしょう。沼津-静岡間は1949年に電化されましたので、客車列車の置き換えに使われました。またローカルとは言え本線運用が含まれましたので、元横須賀線車輛の格も活かせたはずです。因みに富士区のモハ32+クハ47による静岡ローカル運用は、1963年に、111系の配備によって80系が田町などから静岡運転所に押し出されてきて、80系に置き換わるまで続きました。それまでの間、中間車・優等車こそなかったものの、横須賀線編成の再現が静岡地区で見られたわけです。

 富士区では電動車は下り寄り(偶数)、制御車は上り寄り(奇数)と定められていたため、富士区に転入したクハ58は全車奇数向きに方向転換が行われました。逆にモハ32の奇数向きは偶数向きに転換されたはずです。理由はよく分かりませんが、当時の富士区はMcTcの基本編成を組み合わせて運用されており、かつ電動車が17m、制御車が20mと車体長に違いがあったため、McとTcの方向をそろえることで、(特に東海道本線ローカル運用において) 乗車口をそろえて乗客の混乱を招かないようにする、というような理由で方向が揃えられたと推定されます。

 因みに1954年の富士区の車両配置を見ると、Mcは17m車(1両を除いて旧モハ32に統一), TcとMpgc/Mgcは20m車に整然と統一されていました。モハ14, クハ47の転入で、社形やモハ14100(初代モハ62)やクハ18(初代クハ77)は、飯田線に追放されました。ただ、その後車両不足のためか1955~58年に掛けて飯田線や首都圏から17mのクハ16が転入してきて雑然としてしまいます。

 さらに、1952年には便所取付改造が行われました。しかしながら53年の形式称号改正でクハ47100代に編入された際は、元々偶数だったため、実際の方向とは逆に全車偶数番号が与えられました。なお、クハ58001は4扉化されたため(85001→79031)、本車が残存していたクハ58中、最も若番でした。このため47100の番号が与えられました。なお、関西時代は幌が取り付けられていたはずですが、身延線ではご覧のように幌枠が取り外され、関東顔になっていました。おそらく更新修繕II の際に、運転台の全室化改造と同時に幌枠も取り外されたものと思われます。

 なお、旧クハ58グループの内4両は後の1957~58年に掛けて、飯田線では貫通路付きのクハの方が使い勝手が良いということで、飯田線の非貫通のクハ47と交換され、飯田線に行ったグループは貫通路が整備されました。

 その後、約30年間身延線で活躍しましたが、1981年の115系化によって廃車となりました。

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