省型旧形国電の残影を求めて

戦前型旧形国電および鉄道と変褪色フィルム写真を中心とした写真補正編集の話題を扱います。他のサイトでは得られない、筆者独自開発の写真補正ツールや補正技法についても情報提供しています。写真補正技法への質問はコメント欄へどうぞ

身延線さよなら運転を務めたクモハユニ44801 (蔵出し画像)

 いよいよ身延線旧形国電シリーズ最後の車輛となりました。やはり最後の車輛にふさわしいのは、1981.8.31身延線旧形国電最終日にさよならヘッドマークを掲げて走ったクモハユニ44801でしょう。身延線を代表する名物車輌の一両でした。

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クモハユニ44801 (静ヌマ) 1981.7 富士駅

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クモハユニ44801 (静ヌマ) 1977.5 富士駅

 今は無き富士駅の跨線テルハをバックに... 跨線テルハの位置がクモハユニ停車の定位置でした。

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クモハユニ44801 (静ヌマ) 1980.3 富士電車区

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クモハユニ44801 (静ヌマ) 1981 富士電車区

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クモハユニ44801 (静ヌマ) 1981 富士駅

 

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クモハユニ44801 (静ヌマ) 1976.4 富士電車区

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クモハユニ44801 (静ヌマ) 1977.5 富士駅

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クモハユニ44801 (静ヌマ) 1977.9 富士電車区

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クモハユニ44801 (静ヌマ) 1977.9 富士電車区

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クモハユニ44801 (静ヌマ) 1977.9 富士電車区

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クモハユニ44801 (静ヌマ) 1977.5 富士駅

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クモハユニ44801 (静ヌマ) 1981.4 富士電車区

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クモハユニ44801 (静ヌマ) 1981.8 富士電車区

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クモハユニ44801 (静ヌマ) 1981.8 富士電車区

 最終日、1981年8月31日、第3運用の中間で電車区に仕業検査を受けに来たところです。本車は前日2運用で甲府に滞泊し624Mで富士区に戻ってから、さよならヘッドマークを取り付けられ、16時近くに富士駅を出発する635Mで最後のさよなら運転にでかけました。上の写真でも運行表示板に635の数字が見えます。この日の夜、23時過ぎに富士に到着し入区する642Mが身延線旧形国電のラストランになりました。共に走った仲間は、47051, 60808, 47110 でした。クモハ60が充てられていたのは、かなりファンが乗ると予想して、収容人数が多くかつ出力の大きい車両をということだったのではないかと思います。

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クモハユニ44801 (静ヌマ) 1981.8 富士電車区

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クモハユニ44801+47051以下さよなら運転
1981.8.31 635M 稲子駅付近

では、本車の車歴です。

1935.3.28 汽車会社東京支店製造 (モハユニ44002) → 1935.5.8 使用開始 東チタ → 1950.5.14 東イト → 1951.3.7 静フシ → 1956.10 更新修繕II および改造 豊川分工 → 1959.6.1 改番 (クモハユニ44002) → 1959.12.22 改番 (クモハユニ44801) ※ → 1969.4.11 静ヌマ → 1982.2.12 廃車 (静ヌマ)

※ 1960.2.4とする資料あり データ出典: ジェー・アール・アール『旧形国電ガイド』、『旧形国電台帳』、鉄道ピクトリアルバックナンバー

 本車は、1934年度に横須賀線用の郵便荷物合造車モハユニ44002として汽車会社東京支店にて製造されました。横須賀線は1930年に電車化され、当初はモハ30や31を首都圏から寄せ集めて運行されていましたが、1930年度から32系電車が製造され32年にかけて置き換えられました。しかし、郵便荷物合造車は置き換えられずモハ30を改造したモハユニ30 (30196, 30198, 30200, 30202, 30204) が引き続き使用されていました。しかし、それを置き換えるために登場したのが本形式です。車体長は20mとなり、形態としては43系になりましたが、このグループでは唯一関西と縁のなかった形式となりました。

 しかし、戦後海軍がなくなったことで郵便輸送量が大幅に減少。このため1946年横須賀向けの郵便輸送は自動車に任せることになり鉄道による郵便輸送が廃止されます。さらに、1948年度にモハ34を改造した荷電、モニ53(のちクモニ13)が落成することで、1949年に横須賀線の荷物輸送は旅客列車併結の荷物合造車ではなく、単独運行の専用荷物電車に任せることになり、モハユニ44は失職してしまいます*1

 一方、1949.5.20に東海道本線静岡ー浜松間が電化延長されますが、それに先立つ1949.5.15、東海道線電気機関車を捻出する目的で、線内ローカル列車に限って伊東線が電車化されます。その時、田町電車区からモハ32(おそらく奇数向き)、4両と失職した偶数向きのモハユニ44(おそらくクハ代用)、2輌、およびクハ47(静鉄転入前なので偶数向き)、2両が、当時の沼津機関区伊東支区(→1950.5.1 静岡鉄道管理局発足で沼津機関区が静鉄に属することになり、伊東支区は田町電車区に移管)に転属もしくは貸渡され、その運行に当たります*2。モハユニ44に関してはおそらく44001と本車でした。なお44001の方は1949年に伊東支区に転属していますが、本車は翌年になっています。おそらく本車の方は当初貸与扱いで伊東支区に行き、翌年正式に転属したものと推定されます。そして、伊東線で使われなかった3輌が大糸線に転出したようです*3。ちなみに伊東線モータリゼーション到来前は、全国的にも観光客が非常に多い国鉄有数の黒字路線でした。なお、富士電車区東海道本線ローカル運用の開始時期は、手元の資料にもなく、ネットを見ても不明ですが、伊東線と同様、東海道本線電化延長に伴う電気機関車捻出の目的で、同時期に始まった可能性が高いです。実際沼津駅飯田線北部転属前の元富士身延鉄道のモハ93003が写されています*4

 その後、1951年に、44001と本車は身延線に転じ*5、さらに荷物合造車として1951.3に改造されたモハニ41016や、大糸線経由で合流したモハユニ61001を合わせて4輌で、冨士身延鉄道以来の社形の荷物合造車クハユニ95(のち郵便室を撤去しクハニ7200)4輌を置き換え、飯田線伊那松島区に転出させます。なお、伊東線の後釜は、70系の配備で押し出されてきたモハ42およびクハ58、さらに他線区から転じてきたクハ55でした。なお、クハ55は車輛の半分を簡易仕切りで仕切ってモハユニ44の後継として伊東線の手荷物輸送に当たりましたが、後正式にクハニ67に改造され、その後信越線高崎口の電化でそちらに移っています。

 ちなみに、静鉄に転入した32系は電動車が偶数(下り向き)、制御車が奇数(上り向き)に揃えられたことは知られていますが、なぜ(結果的に)こんな不合理な決定が行われたのが疑問に思っていました。というのは、この決定によって元々偶数向きだったクハ47, 58を全車方向転換させた上に、1954年から始まった更新修繕で、全電動車の床下機器の山側と海側の配置転換を行う必要に迫られたからです。逆に電動車を奇数向き、制御車を偶数向きに揃えれば、クハ47の方向転換は不要で、電動車も過半数は機器配置転換が不要だったはずです。モハ32はクハ47が偶数向きだったため、001~013[015説あり]までが奇数に揃えられていて、奇数車が多かったのです*6

 その理由として、ひょっとすると本車の転入がきっかけである可能性があるのでは、と推測しています。というのは、一つは、『我が心の飯田線』にある写真から判断するに、元々の富士身延鉄道社形電車は、静鉄国鉄形とはことなり、電動車は奇数、制御車は偶数だったようで、クモハユニ44の前任であった元クハユニ95のクハニ7200も偶数向きのようです。そして、クモハユニ44は元々偶数向きであると同時に、富士駅を含む東海道線の荷物運搬用跨線テルハは各駅の下り側に揃えられてたようなので、クモハユニ44は、クハユニ95に合わせて偶数向きのまま使うのが合理的です。また、1950年に登場した80系は塩害対策で電気側を山側に設置して出場しましたが、既存の電車に関しては、その当時、この点に関してまだ意識されていなかったかと思います。それで、本車に合わせる形で電動車は偶数、制御車は奇数に揃えられたのでは、という仮説です。ただ、1944年以降身延線に投入されたモハ62(→14100代)、クハ77(→18)が既に電動車が偶数、制御車が奇数に揃っていてそれに合わせた、という可能性も排除できないので断定できません。この点については、モハ62, クハ77も32系転入と同時に方向転換された可能性があり、投入当初の向きを確認できる写真を見る機会もないので、なんとも言えませんが...

 そして、1956年には、他のクモハ14と同様に更新修繕IIを兼ねて、屋根全体が低屋根化され、この写真に見るような姿になりました。このとき、床下の機器の山側と海側の交換移設と、パンタグラフのPS-13への交換が行われたものと思われます。

 30年に渡って身延線を走り続け、1981年8月31日、身延線旧形国電最後の日に、写真に見るように、通常運行の中でヘッドマークを掲げてさよなら運転の任務を勤めました。なお飯田線では旧型国電の営業終了(1983年6月)後、ファンからの要望の声を受けて、急遽8月の夏休みの週末に、当初予定になかった、ヘッドマークを掲げた別途さよなら運転が行われましたが、身延線では、旧形国電の営業終了が8月末だったためか、あるいは飯田線ほどアンコールさよなら運転を要望するファンの声が多くなかったためか、別途さよなら運転は行われませんでした。なお、ヘッドマークは進行方向側のみに掲げられていました。因みにネットを検索したところ、このヘッドマークを掲げた写真、非常に少ないです。飯田線の方は結構見かけるのですが...

 

 今は逆に車両の最終通常運行日にヘッドマークを掲げてお別れを企画するなどというのは、ファンが集まりすぎて危ないということで、ありえなくなってしまいました。特別料金を取る有料のさよなら運転企画はありうるのかもしれませんが...

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yasuo-ssi.hatenablog.com

*1:国鉄電車のあゆみ−30系から80系まで』, 交友社, 1968 の記述より。

*2:『1950年台の戦前形国電 (下)』,ネコパブリッシング, 2018 の記述を参考。なお、本書の記述を見ると伊東線の電車化は伊東支区の田町電車区移管と同時であったようにも読めますが、おそらく違います。

*3:なお、非電装のモハユニ61、2輌は、戦争で被災したクハニ67の代替えとして戦時中に赤羽線 [東イケ] に転出。

*4:身延線-買収国電を探る(2)」, 『鉄道ピクトリアル誌』 1953年3月号 に写真掲載。

*5:身延線に20m車が初めて入線したのが、1951.10.24にクハ47003が富士区に転属した時で、その際、20m車が入線しても大丈夫なのか車輛限界のチェックも行われたようなので、おそらくそれ以降に44も転属になったと思われます。

*6:Wikipedia「国鉄32系電車」記述より