省型旧形国電の残影を求めて

戦前型旧形国電および鉄道と変褪色フィルム写真を中心とした写真補正編集の話題を扱います。他のサイトでは得られない、筆者独自開発の写真補正ツールや補正技法についても情報提供しています。写真補正技法への質問はコメント欄へどうぞ

元はサハ48トップナンバーだった 身延線 クハ47057 (蔵出し画像)

 本車はもともとはサハ48のトップナンバー48001でしたが、改造によりクハ47に編入された車です。終戦後は連合軍専用車に指定され、ロングシートに改造されました。日本の独立回復で連合軍専用車指定が解除された後も代用2等車として使われましたが、モハ32(→14)の地方転出に伴う制御車不足で、代用2等車の役目を終えた後、本車もクハ化され、モハ32と共に静鉄に転出しました。クハに改造されてもそのままロングシートが維持されていた車両です。

 因みに1954年までに静鉄に転出した旧モハ32は40両、それに対して、それに伴って転出したクハ47は改造車を含めて26両で、モハ32は身延線飯田線の全車両基地に配置されましたが、クハ47は一旦、富士区、豊橋区と中部天竜支区に転用されました。クハ47の過半数は富士区に配置され、豊橋区の不足するクハの補充は、常磐線のクハニ67を改造したクハユニ56、および47の富士区の転入で捻出されたクハ18で賄われたようです。しかし豊橋区に行ったクハ47は1954年までに富士区のクハ18と交換になり、クハ47は富士と中部天竜のみの配置になります。豊橋区や伊那松島区の旧モハ32の相棒は、クハニ67を改造したクハユニ56が充てられたり、身延線社形置換え用だったクハ18が転用されたり、社型のクハが充てられたりしました。

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クハ47057 (静ヌマ) 1979.5 富士電車区

 

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クハ47057 (静ヌマ) 1979.5 富士電車区

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クハ47057 (静ヌマ) 1977.5 富士駅

 本車の2-4位側の写真が撮れていませんが、ネット上でも発見できませんでした...

本車の車歴です。

日本車輛製造 (サハ48001) → 1930.12.13 使用開始 東チタ → 1937.3下旬 トイレ取付 & 定員変更 大井工 → (1947.3現在 東イケ) → 1954.2.15 改造 豊川分工場 (クハ47057) 静チウ →  1956.12 更新修繕 豊川分工 → 1957.2 静ママ → 1957.12 静フシ → 1969.4.11 静ヌマ → 1981.7.1 廃車 (静ヌマ)

 本車は日本車輛で製造され、1930年の横須賀線電車化開始とともに使用されました。1937年にはトイレ設置工事が行われました。戦後は連合軍専用車に指定され、車内はロングシートに改造され、1947年の時点では山手線で使われていたようです。Wikipediaの記述によると、本車が連合軍専用車に指定されたのは、1947年であるようです。1952年には連合軍専用指定は解除されるもののそのまま日本人も乗車可能な代用2等車として運行されましたが、1953年10月までにそれも解除、そしてモハ14の地方転出のお供としてクハ化され、飯田線中部天竜機関支区に配置されます。この間一旦田町区に戻ったのかどうかは手元の資料では定かではありません。本車の改造記録から判断すると、最後に横須賀線から旧モハ32(モハ14042~045)がクハ47と連れ立って転出したのが1953年末~54年初頭だったようで、最後に転出した車輛たちは中部天竜区に投入されたようです。因みに、本車はモハ32とともに地方転出した改造クハ47の一番しんがりでした。

 なお、しばらく後に再度サハ48のクハ化が行われますが、それは飯田線北部昇圧後の社型の置き換えだったり、横須賀線内や、地方転出した80系短編成化による制御車不足で追加改造されたものであって、旧モハ32の相棒となる制御車不足で改造されたものではありません。

 しかし中部天竜区に配属された20m車は、中部天竜区の17m車統一化ですべて他区に移ることになり、本車は伊那松島に移ります。しかしロングシートであったためか、富士区での東海道ローカル運用の拡充のため転用され、その後身延線旧形国電終焉まで走り続けました。

 

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