本車はもともと横須賀線32系の2等車(後、1等車、現グリーン車)として製作された車両です。32系の大半が地方線区に追われた後も本車は70系と共に使用され続け、113系の投入で横須賀線からの70系の撤退と同時に、かつての同僚が待つ身延線に移りました。34年という長期にわたって横須賀線で活躍しました。1964年に投入された113系は1994年~1999年に掛けてE217系に置き換えられていますので、系列としては35年間横須賀線を走り続けたわけですが、個別の車輛としては、1969年以降1000番台車に置き換えられていますから、最長でも30年間の活躍にとどまっていますので、本車が最も長く横須賀線で活躍したという記録は破られていないはずです。
サロ45は、当初は横須賀線基本編成用として使用されていましたが、当時はトイレがなく苦情が出たため、1935-6年にトイレ付きのサロハ46(のち66)が新製されると、サロ45は運用時間の少ない付属編成用に回ります。1944.4.1には戦時体制で2等車の廃止が決定、サロ45は4扉車への改造が決まります。しかし、海軍基地を抱える事情から(おそらく海軍から苦情が入って)、8.16に2等車が復活、未改造の004, 005, 007, 008, 012はそのままサロとして残り、70系投入後もサロ46(のちサロ75)とともに横須賀線で活躍し、さらに身延線転出・サハ格下げ後も1981年まで活躍することになります。
戦後は連合軍専用車に指定され(1953.10まで)、比較的良好な状態のまま整備され続け、1953年度(1953-4)に大宮工で更新修繕を受けグローブベンチレーター化、および座席の新製のサロ46並み更新が実施されます。おそらくこの時、室内もサロ46並みにペイント塗潰しに変わったのではないかと推測されます。さらに1956年度末(1957)にようやくトイレが設置され、さらに1957年度末(1958)に室内灯の蛍光灯化が行われます。身延線転出後は、サロ時代と同じ車内設備でサハ化されて活躍しました。
なお本車の身延線への転入により17m車が置き換えられるというような動きはなかったようです。ダイヤ的にも電車の運行本数の変化はなかったので、純粋に編成増になったようです。
その後、1975.3にサハ45の若番3両が北松本に移り、身延線には本車と012が残って、115系化まで活躍しました。
右隣はクモハ51850です。サハ45は、検査等で外れない限りクモハ51850代と連結されるのが常でした。
上の写真を見ると1位側の側面に手摺が見えますが、これは本車の特徴で、45012と区分する目印になります。また樋が平樋に更新されています。これも見分ける手がかりになります。
2-4位側の写真はこれしかありませんでした。
上の写真を見ると1等車時代の帯の塗装の跡が鮮明です。
こちらは客室内です。まず旧1等車用の椅子がそのまま残されていました。モケットは赤紫から青に貼り替えられていると思いますが... 室内は、モスグリーンに塗られていました。なおWikipediaの情報によると横須賀線のサロ46(→75) は1953年度新製分から室内ペイント塗潰しになったとありますので、それに合わせて本車も1954年の更新修繕の際、ペイント塗潰しになった可能性があります。おそらくピンクがかったクリームかベージュ色ではなかったかと推測しますが、見ていないので分かりません。モスグリーンになったのはサハ格下げ後でしょう。
それでは本車の車歴です。
田中車輛製造所製造 1931.5.28 使用開始 東チタ → 1954 更新修繕 大宮工機部 → 1960.4.20 東フナ → 1965.2.21 静フシ → 1965.3.1 サハ格下げ → 1969.4.11 静ヌマ → 1981.10.19 廃車 (静ヌマ)
田中車両は、今日の近畿車両の前身です。つまり生まれは大阪ということです。34年間を横須賀線で、そして16年間を身延線で活躍しました。なお資料によっては1964.8.31サハ格下げとする資料もありますが(『旧形国電台帳』)、当時の鉄道雑誌では身延線転出後格下げとなっていました。転出前に格下げとは考えにくいので、おそらくこちらの方が正しいものと思われます。なおサロ45の中には64年の夏に一足先に転出したものもいたので、そのデータが全車の格下げデータと誤解されていた可能性があると思います。