身延線にはサハ48を改造したクハ47が多数いましたが、大半は連合軍専用車指定を受けてロングシート化されたサハ48から改造したもので、クロスシートのままの改造車は3両しかいませんでした。本車はその少数派の1両です。
では、本車の車歴です。
汽車會社東京支店製造 (サハ48006) → 1930.12.23 使用開始 東チタ → 1935.11 下旬 便所設置 → 1951.10.30 静トヨ → 1952.2.1 改造 豊川分工 (47012) → 1953.2.15 静フシ → 1958 更新修繕II 豊川分工 → 1959.12.22 改番 (47053) → 1869.4.11 静ヌマ → 1981 .11.14 廃車 (静ヌマ)
本車は1930年汽車会社東京支店にて、横須賀線用サハ48006として製造されました。1951年の70系投入でモハ32を地方転出させる際に、既存のクハ47ならびに関西から来たクハ58をお供にするだけでは足りなくなり、身延線用にクハ化され、ともに身延線に移ります。本車は一旦豊橋区に移りますが、当時の飯田線は基本的に McTc で運用されていたと思われますので、豊川分工場で改造するために一旦移ったものと思われます。改造当初は47012という車番でしたが、1959年の番号整理で、47053に改番されました。その後一時東海道線ローカルなどにも使われることもありましたが、そのまま身延線旧形国電終焉まで走り続けました。なお、前面雨樋の改修や運行灯の設置、運転席窓Hゴム化は1958年の更新修繕IIで実施されたものと思います。
なお、モハ32は、1951年から54年に掛けてどうやら一部は異なりますがおおむね番号順に、最初は身延線、次は飯田線と徐々に転出したようです。若干の調整のための転出入を経て、1954年の時点で最初の若番は富士区へ、次に豊橋区に、その次は伊那松島区へ、最後は中部天竜支区へと整理されました。それに対し、数が少なかったクハ47の投入は富士区、豊橋区と、最後の中部天竜支区のみで、しかも過半数は富士区に投入され、不足分は、かつて身延線の輸送力増強のため木造車を鋼体化したり、モハ30を電装解除し2扉クロスシートのクハ化したりしたクハ77(→のち18)や、さらにクハニ67を改造したクハユニ56、さらに社形のクハが充当されました。なお当時、飯田線北部は1200Vだったこともありクハ47は投入されなかったものと思われます。なおモハ32は1200V区間にも投入されました。国電区間は1931年まで1500/1200V混在で(最後に昇圧されたのは山手線)、横須賀線はモハ32新製当時1500Vに統一されていたものの、モハ30, 31を含めた初期の電動車はもともと複圧対応仕様だった可能性があります。
しかも1954年には豊橋区のクハ47と富士区のクハ18が交換され、富士区のクハは20m車に統一される一方、豊橋区のクハは17m車に統一されます。これは、富士区が東海道本線静岡ローカルを担当していたため20m車を優先的に配備するという措置が取られていたためと推測します。なお同年富士区には旧モハ32のモハ14の払底で、足りなくなった分をモハ11を2扉化改造して投入しています。
1961年静岡運転所開設までは静鉄で一番格が上だったのが、富士区、そして豊橋区、伊那松島区、中部天竜支区という序列だったのでしょう。ただ最後の中部天竜支区に関しては完全にクハ不足で、クハ47が改造で追加投入されています。
なお、本車に関しては1953年3月の『鉄道ピクトリアル』誌に掲載された「身延線-買収国電を探る(2)」という記事にある、1952年秋~末頃の富士区配置車両一覧に番号が見当たりません。単に記事で見落されたのかもしれませんが(ひょっとすると、この記事に掲載されていた車両配置が1952年1月基準である可能性もある)、改造直後は055と同様、一旦豊橋区に配属された後、055より一足早く、1953年中に富士区に移動した可能性もあります(上の車歴では、改造後富士区へ配備されたものとして書いてあります)。
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