省型旧形国電の残影を求めて

戦前型旧形国電および鉄道と変褪色フィルム写真を中心とした写真補正編集の話題を扱います。他のサイトでは得られない、筆者独自開発の写真補正ツールや補正技法についても情報提供しています。写真補正技法への質問はコメント欄へどうぞ

身延線唯一のクモハ41 クモハ41850 (蔵出し画像)

 本車は身延線旧形国電末期に唯一のクモハ41として活躍しました。他に一時モハニとして使用されていた41800も存在しましたが、1975年3月に上松-松本-麻績(のち聖高原)区間運転用として43800代と共に北松本運転支所に転じます。

 本車は形状を見ると変わり種であることがすぐ分かると思いますが、元々は純粋の41ではなく、当初は両運のモハ40048でした。戦時中に定員増のため一方の運転台を撤去して41に編入された車両です(41095)。さらに1963年に改造された際に本来のクモハ41からの改造車と区別するために41850を名乗りました。

 また昭和10年製の第2次車ため、運転台部分が独特の形状をしています。第1次車に比べ運転台が拡張されたため、運転台の後ろの窓配置が2枚に分割されており、さらに運転台側の窓の下に大きな通風器が設置されています。昭和10年製の40系のなかには41は含まれていませんので(他にクハ55は製造)、これは改造車独特の形状です。この通風器は後年撤去されてしまった車両も多いので、残っていたのは貴重です。

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クモハ41850 (静ヌマ) 1977.5 富士駅

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クモハ41850 (静ヌマ) 1977.5 富士電車区

 

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クモハ41850 (静ヌマ) 1977.5 富士電車区

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クモハ41850 (静ヌマ) 1981.6 富士駅

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クモハ41850 (静ヌマ) 1981.6 富士駅

 この写真はその上の写真よりやや高い位置から撮っていますが、屋根上の前4つのベンチレータと後ろ2つのベンチレータの形状が違います。因みに、サハ45の次位の4両基本編成の中間に連結されているのが分かりますが、本来ここは前面幌付きのクモハ51850代の定位置です。そのピンチヒッターとして前面に幌のない本車が使われているのが分かります。数少ない平妻クモハなので、クモハ51850代の代用にされやすかったのでしょう。

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クモハ41850 (静ヌマ) 1981.3 富士駅

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クモハ41850 (静ヌマ) 1981.5 富士電車区

 

クモハ41850 (静ヌマ) 1976.4 富士駅

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クモハ41850 (静ヌマ) 1977.5 富士駅

 パンタグラフ側連結面です。

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クモハ41850 (静ヌマ) 1977.5 富士駅

 空気側床下機器です。

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クモハ41850 (静ヌマ) 1977.5 富士駅

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クモハ41850 (静ヌマ) 1981 富士電車区

 後部連結面です。幌は両支持形のものが設置されていることが分かります。

 最後は車内です。

最後に本車の車歴です。

日本車輛東京支店 製造  (40128)  1935.6.15 使用開始 (東ツヌ) → 1936.4.1 改番 (40048)  →  1940.7.6 東イケ → 1944.7.12 改造 片運化 (41095) → 1950.9.4 千ツヌ → 1950.10.4 東ミツ → 1952.3.30 千ツヌ → 1954 更新修繕II 日本車輛 → 1963.3.26 (3.16とする資料もあり) 静フシ → 1963.5.8 改造 浜松工 (41850) → 1969.4.11 静ヌマ → 1981.8.22 廃車 (静ヌマ)

 首都圏では総武線を中心に山手線、中央線でも活躍しました。28年間首都圏で走った後、1963年に身延線に転出します。当時電動車はクモハユニ44を除くと17m車のクモハ14で揃っていましたが、17m車置き換え目的ではなかったようです。あるいは、64年に甲府上諏訪間が電化されそれまでDCで運用されていた韮崎-甲府間の区間運転が増えることを見越しての転入だったのかもしれません。また65年には横須賀線などから20m車がかなり転入してきますので、モータリゼーションも本格化していない中、増客増で車両が不足してたのかもしれません。その後本車は身延線で18年間を過ごしました。

 なお、低屋根化改造前は奇数向きだったようで身延線入線時に方向転換が行われたものと思われます。その際に、床下機器の方向も元々は2-4位側が電気だったものが空気に転換されたものと推定されます。

 また室内は戸袋窓の内側がモスグリーンに塗られていないようですので、ニス塗りが維持されたように思われます。

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 なお、以上の写真の内、2枚目の写真を拙作の汎用色チャンネル再構成ツールを使って補正しています。

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左: 補正前 / 右: 補正後