クモハ51804以降の800代では、本車からクモハ51の第2次車になります。つまり、当初から全室運転台車として製造された車です。そのため、第1次車とは異なり、運転台扉とその後位の窓の間隔が開いています。このグループも関東仕様の偶数車でした。
窓から垣間見える座席の背もたれから判断するに、本車は客室内のニス塗りが維持されていたようです。
この2次車からは、なぜか窓のHゴム化施行の比率が下がっているケースが多いようです。製造年の古いものからHゴム化を一所懸命施行しだしたものの、そこまでコストを掛けることはないと、最低限のHゴム化にとどめるようになったのでしょうか。因みに70系も、後年1次車は戸袋窓などかなりHゴム化が進められましたが、2次車以降はあまり進められていません。
本車の車歴です。
1937.3 新潟鐵工所製造 (モハ51012) 東ミツ → 1943.10.29 改造 大井工 (モハ41067) → 1950.5.22 大ミハ → 1951.4.4 座席復旧 吹田工 → 1952.3.1 改造 吹田工 (モハ51012) → 1954.1.10 更新修繕I 吹田工 → 1956.3.1 大タツ → 1970.2.17 静ヌマ → 1970.6.10 改造 浜松工 (51814) → 1981.9.8 廃車 (静ヌマ)
本車はもともと新潟鐵工所で製造された関東向けモハ51012でした。なおモハ51の中で新潟鐵工所で製造された車は珍しく、3台のみでした。その後大阪にやってきたあと、宮原→高槻と移りますが、多くのクモハ51が1961~2年にかけ、宮原区の80系の高槻区への移動で明石区に移動になるものの、本車は例外的に高槻に居残ります。そして1970年に身延線にやってきて、身延線旧形国電終焉までそこで活躍しました。