本車はクモハ60の中では60800と共に珍しく幌枠をつけたクモハ60でした。幌枠があった理由はいずれも一度関西に転出した経歴を持っていたからです。ただ本車の方は関西にはわずか1年しかおらず、大半は関東とその周辺で過ごしました。
1-3位側です。
なお、この車両の床下機器ですが、運転台を左にして、表側が空気、裏側が電気になっています。これは、通常の関東の車輌の製造時の姿とは異なりますが、戦後更新修繕の際に、関東の車輌は偶数向きの車輌は、80系、70系に合わせて、空気側、電気側の方向を反対にしたためです。
本車の車歴です。
1942.3.30 日本車輛製造 (60078) → 1942.5.25 使用開始※※ 東カマ → 1950.6.14 東ヒナ→ 1953.12.24 更新修繕I 東急車両 → 1954.8.18 天オト → 1955.12.19 東イケ※ → 1958.9.17 東マト → 1967.12.14 静ヌマ → 1970.6.8 改造 浜松工 (60806) → 1981.10.19 廃車 (静ヌマ)
※『関西国電50年』のデータ。当時の鉄道雑誌では、転属時期が1955.10とされていた。また天オト移動日を 8.21 とする資料あり。
※※『旧形国電ガイド』で製造日とされている日付だが、おそらく使用開始日
本車は1942年にモハ60078として日本車輛で製造され、京浜東北線用として配備されました。そして京浜東北線への63系集中配備があって横浜線に転出したものと思われます。しかし、1954年に同僚の60015と共に一旦遥々大阪・阪和線に転出します。後に阪和線にはクモハ60が多数配備されますが、1954年に阪和線にいた60は、本車と015の2両のみでした。当時の阪和線には流電らがまだいた時代で、国鉄型は40系が僅か、大半はまだまだ阪和型の天下でした。おそらく幌枠が設置されたのは、この阪和時代と思われます。しかし60は当時の阪和線では使いづらかったのか、翌年60015と共に東京・山手線に舞い戻ってきます。しかし20m 3扉車では混雑をさばききれなかったのか、1958年に常磐線に転出し9年間を過ごします。因みに、横浜、阪和、山手線を共に過ごした60015は1959年に横浜線に舞い戻り、後に大糸線に転じ、さらに最後は阪和線に舞い戻ったようです。
本車の方は常磐線から1967年の御殿場線電化で沼津機関区に移動します。3年間御殿場線用として使用されたのち、身延線の17m車淘汰のため、低屋根に改造され、身延線に転じ、以後11年間を所属区は変わらないものの身延線用として使用されました。
本車は、東京から大阪まであちらこちらを転々としましたが、結果的に身延線時代が最も長く、次いで長かったのは常磐線時代でした。
なお、本車は私の写真ではよく分かりませんが、ネットに上がっている写真を見ると戸袋窓の内側がモスグリーンに塗られていますので、内部はニス塗りではなくモスグリーン(淡緑1号)のペイント塗装でした。これは、私の当時取ったメモからも裏付けられます。以下のサイトに御殿場線時代のクモハ60078の写真がありますが、既にこの時代からペイント塗になっていたようです。
kokuden.net---------------------