本車は、関西型通風機が残ったのが特徴だったクモハ51です。なお窓のHゴム化は運転台右側窓のみと最小限で、室内もニス塗りが維持されていました。
背後に荷物車に積む荷物を運搬する跨線テルハ (テルファー) が見えますが、国鉄の手荷物輸送の廃止によってこれも過去の思い出となってしまいました。
連結面の窓枠の周りがクリーム色に塗られていました。
2-4位側と1-3位側を比べてみると客用扉の形が全くバラバラです。
なお、3位側の客用戸袋窓が3段窓になっていました。異彩を放っています。
こちらは大船工場入場のため東海道・横須賀線 (まだ東海道・横須賀線分離前です) を行くクモハ51816以下の編成です。この頃はまだ戸袋窓が三段になっていませんでした。ひょっとするとこの時の入場で、73系の廃車発生品を使って3段窓化されたのかもしれません。因みに旧横須賀線の車両は工場入場のため昔通いなれた道を再び走る機会がありました。
それでは本車の車歴です。
1937.3 汽車会社東京支店製造 (モハ51017) → 1937.4.27 使用開始 東ミツ → 1944.1.31 改造 大井工 (41072) → 1950.10.16 大ミハ → 1951.5.21 座席整備 → 1952.3.15 改造 吹田工 (51017) → 1953.11.19 更新修繕 吹田工 → 1956.3.1 大タツ → 1962.9.15大アカ → 1970.2.17 静ヌマ → 1970.6.4 改造 浜松工 (51816) → 1981.10.19 廃車 (静ヌマ)
本車は中央線用として1937年に汽車会社東京支店で製造され、下り・浅川寄りに連結されて使われました(偶数車)。このころ、東京では新中間層が増加し、登山などのレジャーを楽しむ人々が出てくるようになりました。中央線も高尾山にハイキングに行く行楽客が増加し、そのような行楽客へのサービス向上として本車は投入されました。戦後の中央線は真っ先に新性能車が投入されるなど大きく格が上がりましたが、当時は木造車なども連結され、必ずしも格が高くなく、その中でモハ51の投入は異彩を放ったようです。
戦時中は混雑に対応すべく座席撤去が行われモハ41に編入されますが、戦後モハ43一党との交換で大阪に移り、座席整備を受けてセミクロスシートが再整備され、さらに歯数比を高速対応に変更してモハ51に復帰します。なお東京から大阪に移ったモハ51はすべて偶数車で海側に電気機器がありましたが、既存の大阪車に合わせた床下機器の移設が行われることはありませんでした。京阪神間を20年間走り続けたのち、大阪万博対応として103系の投入が始まったことから、本車はクモハ14置き換え用として身延線に移り低屋根化され、身延線旧形国電終焉まで活躍しました。
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