省型旧形国電の残影を求めて

戦前型旧形国電および鉄道と変褪色フィルム写真を中心とした写真補正編集の話題を扱います。他のサイトでは得られない、筆者独自開発の写真補正ツールや補正技法についても情報提供しています。写真補正技法への質問はコメント欄へどうぞ

中部天竜機関支区にいた飯田線のクモハ51019

 本記事は以前「高尾山麓日記」に載せていた記事の手直し、および写真を追加したものです。

 さて、1978年10月の改正で80系が導入されるまでは、豊橋機関区中部天竜機関支区 (後の佐久間レールパーク) には11輌の電車が配属されていました。その1輌は、最後まで国鉄に残った木造電車サエ9320でしたが、その末期には、営業用の電動車はすべてオリジナルのクモハ51 (15, 19, 23, 44, 46)できれいに揃っていました。残念ながら78年にすべて廃車になってしまいましたが... おそらく出力がクモハ54より小さいということがネックになったのだと思います。
 今考えると、わずか10輌の配置で車輌の検修までやっていたなんて、奇跡的というか、今だったら不合理だとされ到底考えられないところですが、おそらく労働組合の抵抗のお陰で、あの頃まで三信鉄道時代の遺産(中部天竜天竜峡間が独立した三信鉄道であった時代の車両基地)が残されたということなのでしょう。

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クモハ51019 (静チウ) 1977.12 豊橋駅

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クモハ51019 (静チウ) 1975.5 豊橋駅

 ほぼ同じ角度から豊橋駅で撮った写真ですが、カラーのものは77年12月、モノクロのものは75年5月に撮ったものです。でも両方とも変61運用なので、2年半の歳月は空いていますが全く同じ列車を撮ったものでしょう。
 因みに、本来の中部天竜支区61運用というのは、早朝、2両編成単独で新城を622Mで出て豊橋に向かい、折り返しで623Mとして中部天竜に入ってそのまま入庫してしまうという運用でした。それが変61運用になると、クモニ+Tpgc付の豊橋42運用で構成される1222Mに中部天竜から増結され、そこでクモニを切り離して折り返し辰野に向かう1223Mになって、多分中部天竜で解結して再び入庫する、という連休などの多客時用臨時運用だったのだと思います。したがってこの写真は両方とも1222M→1223Mとなる豊橋折り返し時の写真と思われます。

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クモハ51019 (静チウ) 1976.5 豊橋駅

 なお、1-3位側側面の写真が撮れていませんが、他の方が撮られた写真によると、客用扉の形状は2-4位側と同じだったようです。

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1-3位側の客用扉の形状

 なお、例によって『関西国電50年』によりますと、この車の車歴は、

1937.4 汽車会社東京支店製造 (東ミツ) →1943.11.10座席撤去改造(大井、モハ41074へ改番)→1950.5.22大ミハ→1951.5.1座席復旧 (ロングシート)→1952.4.30セミクロス化復元改造 (吹田、モハ51019へ復番)→ 1953.9.30更新修繕I(吹田)→1956.3.1大タツ→1962.9.15大アカ→1969.4.24静チウ→[全般検査1977-2浜松工※※]→1978.10.1静トヨ→1978.11.28廃車

※※現車確認

 元々は中央線ハイキング電車として関東で働き、クモハ42グループと交換に大阪へ転出、そして最後はクモハ14の置き換えとしてやってきて、中部天竜でずっと過ごしました。関東で13年、関西で19年、最後は飯田線で9年過ごした計算です。運転台窓もHゴム化されることなく、パンタもPS-11を維持し、オリジナルに近い姿を最後まで維持していました。床下機器の配置も一部機器の増設を除いてはほぼオリジナルが維持されていたと思います。

 なお、1970年に身延線に転出したクモハ51はかなりHゴム化が進んでいる車両が多かったのですが、本車は全くHゴム化されていませんでした。本車の場合は、首都圏での新性能化の玉突きでやってきた73系に押されて転出していたと思われますので、このころまでは、吹田工場が検査を受けもたない他局に対しては、Hゴム化などの更新がされていない車両を中心に転出させていたのかもしれません(因みに岡山局は吹田工場が検査を担当)。しかし、1970年の大阪万博を控え、大鉄局が国鉄当局に京阪神緩行線への103系の投入を要請し、その第1陣が1970年8月に到着してからは、更新、未更新に関係なく転出させるようになったと考えられます。それでも京阪神緩行線には1975年までクモハ51が残りました。

 

 なお、参考までに中部天竜機関支区車両配置末期(1973-1978年)の車両配置表を掲げます。

クモハ51 015, 019, 021, 044, 046 

クハ 68 401, 403, 405, 407

クハ 47 151

サエ9320 9320

 これ以前はクモハ14とクハ16, 18の17m車で揃っていました。1966年現在では次のような陣容 (除く救援車) でした。

クモハ14  005, 007, 011, 013, 014

クハ16  011, 407, 435

クハ18 013, 015

 しかし、まず1966年に 54108と68007(のち401), 68009(のち405)が関西から転入してきて、 1967年6/8にクモハ14 011, クハ16 011, 407が廃車、そして1969年から70年に掛けてクモハ51 004, 015, 019, 044, 046がやってきて、クモハ14が全廃になるとともに、54108は転出、クハに関しては、1970年に沼津から16469, 471が来て クハ18が全廃(1970.4.16)されましたが、17m車が残ったことは変わらず、1971年になって、47155が沼津から、68017が豊橋から、伊那松島から68077(→407)がやってきてクハ16が全廃になり(435: 6/9,  469: 8/1, 471: 9/22)、ようやく20m車化が達成されました。この時点での陣容は下記の通りでした。

クモハ51 015, 019, 044, 046, 804(←004) 

クハ 68 017, 401(←007), 405(←009), 407(←077)

クハ 47 155

 その後、20m車の入れ替わりがあり、1973年から上記の陣容となりました。51004は身延線に転用される予定で低屋根化(→51804)されたと思われますが、飯田線の車両不足のせいかそのまま手放されず、ようやく1973年の中央西線の電化による列車の電車化用のため北松本に転じ、後釜には豊橋から51027が伊那松島に移り、伊那松島区から021が転出して充当されました。トイレなしの017は身延線に転属となり、さらに中央西線用に北松本に転出し、後釜は伊那松島から403が来ました。47155は、身延線から来た151と交代になり、155は伊那松島に転出しました。

 そして中部天竜支区の車輛配置は1978.10.1に廃止され、本区所属の車輛は一旦豊橋区に移動したのち全車廃車となりました。

 なお、1969年に廃車となったクモハ14007は廃車後、富士急のモハ7031になり、1982年まで活躍しました。