今回紹介する車輌は、中央西線や大糸線で使われたクモハ51804です。身延線では使われませんでしたが、身延線とは、ちょっと掠る程度のかかわりはありました。元々はクモハ51004でしたが、身延線で使われることを前提として低屋根化され改番された車両です。本車は1970年明石区の103系の投入で捻出されましたが、この時明石区から捻出されたクモハ51の大半は身延線に転出しました。しかし本車のみ他の明石区のクモハ51とは異なり飯田線・中部天竜機関支区に転出しました。本車の転入により、中部天竜に1両のみ最後まで残っていたクモハ14013が廃車になりました。ところが本車はなぜか低屋根化されます。いずれ関西からさらにクモハ51が転出してきたら、その時に身延線に再転出させる予定だったのでしょうか。
しかし、1970年に置き換える予定のクモハ14は22輌(14800, 802〜823, なお801は1967年に廃車)だったのに対し、沼津区に投入されたクモハ51は13輌、クモハ60は9輌と同数です。一部20m車(41800代、51800代 各2輌、43800代 4輌)は既に配備されていましたが、それらはそのままでした。20m車とは言え、身延線に多かったクモハ51の初期車は、クモハ14と5年程度しか車令の差がありません。車両故障等で身延線の低屋根車が足りなくなった時のバックアップとして考えられていたのかもしれません。
結局、本車は身延線で使われることはありませんでした。低屋根が活用されるのは、1973年3月に松本運転所北松本運転支区に転出してからでした。中央西線、篠ノ井線のローカル運転用としてです。
こちらは、中央西線・篠ノ井線の区間運転に就いているクモハ51804です。朝の上松発松本行で松本に到着し、分割作業中かと思います。北松本運転支所の旧形国電による上松-松本ー麻績 (のち聖高原) 間の区間運転は1973年3月28日の篠ノ井線の電化および同年5月の中央西線中津川-塩尻間電化で開始され、115系投入の玉突きによって、1977.8.10に松本運転所(本所)の80系に移管されるまで続きました。この写真はその最末期に撮ったものです。
この区間運転は客車列車の置き換えですが、当初身延線に73系を改造したアコモ改造車62系を投入し、身延線の余剰車で運転する予定でした。しかし、投入が2年遅れたため、飯田線や身延線から転出もしくは借り入れの形で車両がかき集められて始まりました。
この時点で北松本に行ったのは静ママから本車と静ヌマから68001, 017が転属し、そして静ヌマから51850が借り入れられ、始まりました。中央西線塩尻ー中津川間はやや遅れ電化されますので、当初は松本ー麻績間のみではなかったかと思います。その時点ではMcTcの1運用で1編成を予備に当ててたのだと思いますが、中央西線電化後はどうしていたのか... 予備編成無しで4輌をフルに使い、検査時は80系あたりを当てていたのか... ?
1975年3月にはアコモ改造車が静ヌマに配備され、捻出されたクモハ43800代やサハ45が北松本にやってきて4運用で担当することになり、最長6両編成で運転されることになりました。サハ45は大糸線運用に充てられ、その代わり大糸線運用からトイレなしクハ55が捻出され、中央西線運用に就きました。本車が中央西線・篠ノ井線ローカルを担当している間は、交番検査の時のみ北松本に戻りましたが、普段は松本運転所に常駐していました。
こちらは、中央西線区間運転終了後、大糸線に転用され活躍していた当時のクモハ51804です。結局低屋根が活用されたのは4年半あまりでした。まさか中央西線で活用されることを見越して低屋根化されたとも思えませんが...
なお、本車は元モハ51004で、第1次車でしたので当初半室運転台で登場したはずですが、乗務員扉と次の窓の間隔が開いています。これは全室運転台改造時に第2次車と同じ寸法に全面改修したためと思われます。51804, 806, 808はこのような改修になっていました。
車内が垣間見えていますが、内部はニス塗りが維持されていました。
本車の車歴です。
1935.11.27 日本車輛製造 (モハ51004) → 1936.7.4 使用開始 東ミツ → 1944.3.8 改造 大井工 (モハ41059) → 1946.7.31 東モセ → 1950.9.17 大ミハ → 1952.2.20 改造 (歯数比変更) 吹田工 (モハ51004) → 1952.6.18 更新修繕I 吹田工 → 1956.3.1 大タツ → 1961.10.1 大アカ → 1970.1.27 静チウ → 1970.5 改造 浜松工※ (クモハ51804) → 1973.3.24 長キマ → 1981.9.18 廃車 (長キマ)
※上データは当時北松本運転支所で閲覧させていただいた車歴簿の記録。『関西国電50年』では1970.7.27とあり。
本車は、1935年、東京の中央線向けモハ51004として製造され、戦時中に座席撤去を受けモハ41059となります。1946年には下十条に移って京浜東北線で使われますが、1950年にはモハ42一党と交換で大阪に向かいます。その後は多くの51と同様の経歴をたどり、1970年に万博を控えた明石区への103系の投入で、唯一飯田線に転出します。その後の経過は上述の通りで、中央西線・篠ノ井線ローカルの運用がなくなったあとは大糸線の一般運用に使われ、大糸線の115系化で廃車となりました。
なお中部天竜支区における、本車転出(1973.3)後の後釜は、豊橋から51027が伊那松島に転出し、伊那松島から捻出された51021が中部天竜に行くことで補充されました。おそらくより状態の良い車が伊那松島に優先的に配備されたものと思われます。豊橋区へのMcの補充はありませんでした。